■骨董や美術品、アンティークの買取で福岡市西区に出張買取に出かけました。
新聞の広告を見たとの事でお電話があり遺品整理をしたいとの事でした。
お医者様のお宅で有田焼や古伊万里を中心に約150点程のコレクションを査定致しました。
これはその一つの柿右衛門です。
十四代の柿右衛門の猪口ですね。
佐賀県西松浦郡有田町で、13代目の息子として生まれる。
絵付けの基礎となる部分を会得するため多摩美術大学日本画科で日本画を学び、卒業後帰郷して父親に弟子入りする。下積みを重ね父と祖父(先々代)が蘇らせた“濁手”(にごして)の技法なども学んでいく。1971年、改名前の本名の酒井田正(さかいだまさし)名義で日本工芸会会員となり、この後のほぼ10年は本名で公募展や個展に出品した。
1982年、父の死を受け14代目を襲名。翌年アメリカ合衆国で「クローズ・アップ・オブ・ジャパン・イン・サンフラシスコ」にて海外で初出品し、サンフランシスコ市長から名誉市民号を贈られた。「14代目柿右衛門展」は国内だけでなく海外で高い評価を集めた。2001年に重要無形文化財「色絵磁器」の保持者(人間国宝)に認定された。また広く後進の育成にも力を入れ、大学で教えるほか、2011年にはJリーグの地元クラブ・サガン鳥栖のデザインアドバイザーにも就任した。骨董品買取の福岡玄燈舎では柿右衛門作品買取致します。お気軽にお問い合わせください。
福岡市西区より骨董品の出張査定依頼を頂き十四代柿右衛門の濁手を買取致しました。
小さなぐい呑みですが当時、10万円の価格でした。現在はまだ高価で販売されているようですね。
十四代柿右衛門の代表作である「濁手」ですが通常の柿右衛門作品よりは少し乳白色です。
鑑定団には良く出ている有田焼なので」皆さん良くご存知ですね。現在も高価買取できる柿右衛門作品の一つです。
作品の大きな特徴の一つに、『濁手素地』と呼ばれる、柔らかく温かみのある乳白色の素地があげられます。柿右衛門様式の美しい赤絵に最も調和する素地で、1670年代にその製法が完成したと言われています。
しかし江戸中期(1700年代)になると、「柿右衛門様式」に変わり金・赤を多用した「金襴手様式」が色絵の主流となったのに加え、内乱によって下火になっていた中国・景徳鎮磁器の輸出が再び本格化し、オランダ東インド会社による肥前磁器の輸出が減少、江戸幕府による貿易制限等国内情勢の変化も相まって、濁手の製作は一時中断を余儀なくされました。
その後時代は明治、大正、昭和と移り、濁手の復興が待ち望まれる中、十二代柿右衛門(1878生~1963没)はその子十三代柿右衛門(1906生~1982没)とともに長い間途絶えていた濁手素地を復元させるため、柿右衛門家に伝わる『土合帳』等の古文書を基に試行錯誤を重ねます。そして1953(昭和28)年、ようやくこれに成功し、その技法は1955(昭和30)年3月、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されました。さらにその製陶技術は1971(昭和46)年1月、各工程の特に優秀な技術者で構成される「柿右衛門製陶技術保存会(会長 十三代酒井田柿右衛門)」の設立を機にその保存と育成が図られ、同年4月には国の重要無形文化財「柿右衛門(濁手)」として総合指定を受けます。骨董品買取の福岡玄燈舎では柿右衛門作品買取や鑑定致します。お気軽にお問い合わせください。
◎その他の買取品…福岡で骨董品や美術品の買取を行って約20年、太宰府に来て7年ほど経ちますが
今回、陶磁器の出張査定をさせて頂きました。出張鑑定のテレビに出たお宅からの
依頼でした。写真の深川製磁の小さな飾皿ですがとても煌びやかで豪華なお皿です。
青海波に牡丹図柄の金襴手です。
金縁で状態も良く古美術品特有の擦れやペイントロスは見当たりません。
元々は5枚セットでしたが1枚でも存在感のある骨董品の皿ですね。
金彩色絵磁器のこと。中国江西省景徳鎮民窯で16世紀中ごろ(明代嘉靖年間)に作られた。上絵付した後,金箔を焼き付けて文様を表したもので,織物の金襴に似ているところから日本でこう呼ばれた。また広義には金泥を用いたものも含み,装飾技法の名称としても用いられる。金襴手の磁器には地釉(じぐすり)の別によって,五彩(赤絵)に金彩を加えた赤絵金襴手,赤を地釉に用いた赤地金襴手,瑠璃釉(るりゆう)上に金彩を加えた瑠璃地金襴手,その他萌葱(もえぎ)地金襴手,黄地金襴手,白地金襴手などがある。
骨董品買取の福岡玄燈舎では深川製磁の金襴手皿を買取ります。お気軽にお問い合わせください。受付年中無休
◎その他の買取品…骨董品、古美術品の出張査定に出かけました。
九谷焼のコレクターだった祖父の遺品という事で収集品を査定させて頂きました。
香炉や大皿、壷や水指、茶器、酒器や仏像など全て九谷焼の古い物です。
写真の九谷焼香炉は明治期位の物で「角福」印がありとても希少な物だという事でした。
江戸期の九谷焼で陶画工の名前が高台の中に書き入れられたものは、ほとんどなく、窯元の名前か、吉祥を意味した角「福」などの銘でした。明治期に入ると、そうした銘の入れ方と異なる銘が入るようになりました。
九谷庄三は、小野窯で優れた品を制作したものの、いまだ陶画工の名前を書き入れる時代でなかったことから、庄三の名前はなく、角「小野」でした。
天保12年1850、独立してからは、庄三の幼名である「庄七」だけか、角「福」とそばに「庄七」などを書き入れました。そして庄三の人気が博していくなか、角「福」と「庄三」の組み合わせになり、さらに角「九谷」と「庄三(小文字)」(九谷焼の庄三という意味)に変わっていきました。
幕末から明治初期にかけ、彩色金襴の手法を完成させ、貿易九谷の主導的な製品を制作して、庄三の名声が大いに高まると、名工の作品であること(いわゆるブランド)の意味で、苗字であった一行書きの「九谷庄三」銘が製品に入れられました。製品には、直接、庄三の手によるものでなかった作品が多くありましたが、庄三が制作したものとして見なされたといわれます。骨董品買取の福岡玄燈舎では古い九谷焼を買取致します。お気軽にお問い合わせください。