■福岡市東区より中国の古い骨董品を鑑定してくれとの事で出張鑑定に出かけました。こちらは高台の一軒家で見晴らしの良い丘のうえにある住宅でした。戦前おの古い油絵やのポストカード、万年筆なども買取りさせていただき最後に錫製の茶托と茶入れなど中国煎茶道具を10点ほど買取致しました。流派によっては「托子」「茶台」「茶托子」「納敬(のうけい)」などと呼ばれる。
茶托の歴史ですが明から伝来した煎茶法を起源とする日本の煎茶道では、元々茶托に当たる物はなかったと考えられている。茶碗はすべて盆にのせられ、客は銘々茶碗をとって飲用するという作法だったと推測されている。江戸時代中期に清から杯と杯台が輸入されるようになるが、日本の煎茶法でこの杯を茶碗に転用する際に、杯台が茶托に転じた物と考えられる。輸入杯台は錫製が大半であり、結果、日本の煎茶道では現在に至るまで錫製の茶托を最上とするようになった。その後、木製茶托も生産されるようになった。
骨董品買取の福岡玄燈舎では古い茶托や茶道具買取り致します。お気軽にお問い合わせください。
◎その他の買取品…骨董品買取依頼があり古美術品の出張鑑定に来ました。
下の写真は中国の古い麻雀牌です。日本と違い外箱にも上質な装飾や紫檀を使用して
観賞用の美術品になっています。
日本では34種136枚を使用するが、中国ではそれに8種8枚の花牌(春・夏・秋・冬・梅・蘭・竹・菊)を加え、合計144枚を使用する。このように花牌を使用する麻雀のことを花麻雀とも称し、日本麻雀のように花牌を使用しない麻雀のことを清麻雀とも称する。花牌を引いてきた時は、「ホヮ」と宣言して手牌の外に開示して、嶺上牌をツモる。ただし、花牌を引いてもすぐに手牌の外に開示する必要はなく、そのまま牌を捨てることもできる。日本における抜きドラのようなもの。
中国で主に使われている麻雀牌は、日本の麻雀牌に比べ1.5~2倍程度大きい。しかし、麻雀牌の種類は日本と同じであるため、日本製の麻雀牌でも問題なく対局することができる。
日本では三元牌の順番は白板・緑發・紅中とするが、中国では逆に紅中・緑發・白板とする。骨董品買取の福岡玄燈舎では中国麻雀牌買取致します。
◎その他の買取品…中國の書道家よりご連絡頂き不要になった書道具を売りたいとの事で伺いました。
来年、中国に帰国するとの事で普段使いの墨や硯、筆など大量にまとめて買取させて頂きました。
その中には未使用の物も沢山ありました。骨董品の家具や置物、陶磁器、掛軸も数点買取致しました。
日本の「和墨」と中国の「唐墨」の違いですが
今日では日本の墨(和墨)と中国の墨(唐墨)には大きな違いが見られますが、日本に墨が伝来した頃から和墨と唐墨の差が歴然としてあったわけではないと思われます。では一体なぜ違いが出てきたのでしょうか?それにはおそらく、日本と中国の製法の違い、気候風土の違い、紙の発達の違いによって、墨の製法に独特の差が出てきたからではないかと考えられます。
日本においては、唐の文化を多大に受けていた時代から、菅原道真の遣唐使廃止宣言によって変わりゆく国風文化の時代の中で書風が変化したことや、日本独自で生まれた仮名文化が発展していったことによって、繊細な表現が求められるようになりました。書き手や墨磨り職人が共に工夫を重ね、求められる墨を作りだしてきた結果、日本の墨は独自の変化を遂げてきたといわれています。骨董品買取の福岡玄燈舎では中国の書道具買取ります。お気軽にお問い合わせください。
◎その他の買取品…中国古美術品の鑑定買取をさせて頂きました。
とても古い中国家具や絵画、掛軸、茶道具がある中、ひときわ光る玉石入りの
古い硯を発見いたしました。台湾より戦前に持ち帰った硯です。
墨や筆なども一緒に買取りました。
中国には5大名硯があります。端渓硯(たんけいけん)、澄泥硯(ちょうでいけん)、紅糸硯(こうしけん)、松花江緑石硯(しょうかこうりょくせきけん)、歙州硯(きゅうじゅうけん)が有名です。硯(すずり)は、墨を水で磨り卸すために使う、石・瓦等で作った文房具である。 中国では紙・筆・墨と共に文房四宝の一つとされる。 硯及び附属する道具を収める箱を硯箱といい、古来優れた工芸品が多数ある。 一般に硯箱は、桐や花梨でできているものが多い。骨董品買取の福岡玄燈舎では中国硯を買取ります。お気軽にお問い合わせください。受付年中無休
◎その他の買取品…古い大きな九谷の布袋人形買取りました。
とても大きく70センチくらいの身長の人形でした。
金襴手で豪華な九谷焼人形です。
この他にも薩摩焼の大花瓶や壺も買取致しました。
この九谷焼は「八幡窯」の作品でした。八幡窯のある能美郡八幡村では、新時代の窯業生産に対応するために素地部門と上絵部門とが分離され、明治15年(1882)に素地製造の合理化と規格の統一のために八幡に素地専業の窯が作られ、それに上絵専業の松本佐平らが連携した。素地の需要、供給が円滑になり九谷焼の振興に役立った。佐平は、明治16年(1883)頃より伝統的な青九谷風の絵付を復興し、九谷業界に新風を吹き込み、明治20年頃より輸出貿易に対応するため、寺井の各地に陶画の分業場を設置し、規格の統一された素地に絵付した良品を数多く生産して、輸出貿易品の質の向上にも努力した。明治24年(1891)置物の原型を作って製品化したことから、八幡地区は九谷焼の置物産地になって今日にいたっている。骨董品買取の福岡玄燈舎では古い九谷焼の人形や仏像買取ります。