福岡市城南区にて冨永朝堂の木製彫刻作品を買取りました
鋭い表情の鳥です
素朴な味わいですが呼吸をしているかのような立ち姿です
買取品の詳細
先日は福岡市の城南区のお宅に出張査定にお伺い致しました。買取品は彫刻作品や鋳物作品ではおなじみの「冨永朝堂」さんの彫刻です。今回のお客様はブロンズ像や木彫り作品、能面や扁額など彫刻が好きで収集されていたお父様が遺品として伝えられた品物で。「鷺」です。一見、錫もしくは銅製の作品と思われましたが木彫りで着色されていました。仏像や大黒天、ブロンズなどが多いですが木彫りの鷺は数は少ないと思われます。刻印もはっきりと「朝堂」とあり状態も良く共箱付きでしたので高価買取させて頂きました。ありがとうございました。
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買取査定額
冨永朝堂さんの「鷺」は状態や付属品の有無、時代にもよりますが大体5000円から8000円で推移しているようです。ブロンズ像で3000円から5000円、高いものでは「まめ」の香合で2万円前後、「魚干物」(木彫)では3~4万円で買取り致します。もちろん状態や付属品の有無でお値段は変わりますのでご了承ください。
冨永朝堂とは?
冨永朝堂(とみなが ちょうどう)は福岡市に生まれ、17歳で上京します。同郷の彫刻家・山崎朝雲の門下で修業に励みました。そして大正13年(1924)帝展に初入選、「雪山の女」が初入選するとその後意欲的作品を次々と制作し各種の賞を受賞します。その間も真の木彫芸術を求めて座禅(ざぜん)や茶道(さどう)を取り入れながら精神の向上を図りました。昭和7年(1932)、同8年と連続して特選を受賞して無鑑査になり、帝展作家として不動の地位を築きます。そして、戦火の激しくなった同19年に大宰府に疎開しました。戦後に西部美術協会といって朝堂をはじめ坂本繁二郎、豊田勝秋ら福岡在住の重鎮作家を中核に結成された美術協会がありました。終戦後わずか4ヵ月後の同20年12月に早くも会員展を開催します。さらに翌年からは機関紙『西部美術』を発行し、春秋2回の展覧会を開くなど目覚しい活動が23年まで展開されます。冨永朝堂は戦後も太宰府に定住しから日展へ出品を続けますが、次第にその保守的な枠にとらわれない前衛的な作品を発表していきます。尚、冨永朝堂が太宰府を創作の場とした四十余年間は、万葉の世にも劣らぬ太宰府文化が花開いた時代でした。俳人河野静雲をはじめとする文化人との親交、 そして若き芸術家との世代を超えた交わり、地域の人々との心あたたまる交流や人間愛に満ちた朝堂の人柄があ現れた作品が多く、木彫 の道一筋に生きてこられた人でした。
冨永朝堂の作品は太宰府市内に多数保管されているそうです。
観世音寺には、聖観世音菩薩を納めた「厨子」があり、太宰府天満宮の延寿王院(宮司邸)前には、遺作となった「神牛像」があります。観光客の方々が頻繁に牛の頭をなでるのでつるつるの黒光りになっていますね。また太宰府市役所のロビーでは、監修した巨大な木彫りのレリーフ「古都大宰府」を見ることができます。よろしければお寄りください。
〇主な作品…
■施無畏
■雪山の女(ヒマラヤの女):ブロンズ
■児玉桂三氏像:石膏
■群像 ブロンズ
■歩く:木彫(杉)
■踊女:ブロンズ
■羅振玉:ブロンズ
■女:木彫(樟)・着色
■初歩手板彫:木彫・素地
■鷺:木彫・着色(胡粉、一部墨)
★山崎朝雲とは…山崎朝雲は筑前国博多櫛田前町(現在の博多区冷泉町)に生まれ、本名を春吉といいます。仏師のもとで伝統的な木彫技法を学び、その後上京して日本を代表する彫刻家・高村光雲に師事しました。さまざまな展覧会で受賞を重ね、日本彫刻会の結成にも参加。のちに近代彫刻界の重鎮となります。後進の育成にも力を入れ、その中には冨永朝堂など福岡出身の門下生も多くいました。代表作には「養老孝子」妙技三等賞を受賞「気比斉晴」「少女猫を抱く図」が銀賞受賞、第5回内国勧業博で「海岸の子供」など挙げられます。ほかにも「大葉子」「菅公像」「亀山上皇像」「十八羅漢」「寒夜の衛士」「桂の影」など多数あります。
「略歴」
慶応3年 筑前博多に生る。
明治17年 福岡の仏師高田又四郎に師事。
明治21年 博多橘氏四女ゑい子と結婚。
明治26年 京都に出る。
明治28年 第4回内国勧業博覧会に「養老孝子」出品。妙技3等賞を受け、宮内省買上。
明治29年 東京に出て、高村光雲に師事。
明治31年 東京彫工会及び日本美術協会審査員となる。彫工競技会に「母子」出品、金賞を受く。
明治33年 巴里万国博覧会に「気比斉晴」「少女猫を抱く図」出品銀賞を受く。第15回彫刻競技会に皇后陛下行啓の際、御前彫刻を台覧に供す。鋳鋼「少女之図」を日本美術協会に出品、銀賞。
明治34年 福岡市東公園に「亀山上皇」銅像建設。
明治36年 鋳銅「乳搾」を日本美術協会展に出品し金賞を受く、後米国セントルイス万国博覧会に出品す。木彫「海岸の子供」を内国勧業博覧会に出品し、2等賞を受け、宮内省買上。
明治37年 「戯乗」を第35回日本美術協会展出品、のちベルギーに出品銀賞、次いで日英万国博覧会出品金賞を受く。鋳銅「柄香炉を捧げる官女」を第20回彫刻競技会に出品、金賞を受け、宮内省買上。
明治38年 「伊企灘」を第36回日本美術協会展に出品、金賞を受け、宮内省買上。
明治39年 第21回彫刻競技会に皇后陛下行啓の際御前彫刻、鋳銅「彫塑家とモデル」を出品、宮内省買上。鋳銅「新装」を白耳義リエージュ博覧会に出品名誉賞。木彫「竹馬遊」を第39回日本美術協会展出品金賞、宮内省買上。
明治40年 東京府勧業博覧会審査員となり、「桂の影」を出品、1等賞を受け、宮内省買上。
明治41年 同志と日本彫刻会を創立し、「明の封冊」出品。銅像「津軽藩祖為信公」を弘前市公園に建設。木彫「大葉子」を第2回文展に出品し3等賞、政府買上。鋳銅「砂文字」を第23回彫刻競技会出品、宮内省買上。
明治42年 東京府美術及工芸展覧会審査員。銅像「医学博士大森治豊」を九州帝大学内に建設。
明治43年 文展審査員となり、大正7年に至る。日英博覧会出品「夏の夕」「寒夜の衛士」共に金、銀賞を受く。「狗児」を第25回彫刻競技会に出品、宮内省買上。「東奥の乙女」第4回文展出品。
明治44年 「★」ほか2点を第5回文展出品。
大正2年 日本美術協会第51回展に天皇陛下行幸の際御前彫刻を命ぜられ木彫「兎」を彫刻す。
大正3年 大正博覧会審査員となり、「同級生の弔辞」ほか2点出品。「打毬楽」を御大典に際し今上陛下より皇太后陛下に贈らる。「万歳楽」を学習院より宮内省へ献上。
大正4年 「技おり」「同級生の弔辞」を桑港博覧会出品。「東遊」今上陛下より高松宮へ贈らる。木彫「みなかみ」ほか2点を第9回文展に出品
大正8年 農商務省美術工芸審査員(同11年迄)帝展審査員となり、「上矢の鏑」出品。
昭和2年 帝国美術院会員を仰付らる。
昭和9年 帝室技芸員を命ぜらる。芝青松寺「釈迦三尊仏」を完成安置。
昭和12年 帝国芸術院会員仰付らる。「豊太閣」を第1回文展に出品。
昭和15年 「倭乙女」を紀元二六〇〇年奉祝展に出品。
昭和18年 戦禍を避け福島県に疎開す。
昭和19年 「聖観音」を戦時特別展に出品。
昭和21年 日本芸術院会員となる。第1回日展に「春陽」出品。
昭和23年 「五鬢之文珠」を第4回日展に出品。
昭和26年 東京芝青松寺に釈迦三尊仏を再び完成す。
昭和27年 文化功労者となる。
昭和29年 京都東山霊山観音原型製作。6月4日没
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