福岡県春日市で掛け軸(頭山満)を買取りました!

頭山満の一行書買取りました/掛軸の買取も福岡玄燈舎
頭山満の一行書買取りました
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◆今年も残すところあと二か月ほど。福岡の街角では、そろそろ冷たい風がほんのり顔を出し始め、景気のほうもまるで寒風にさらされた枯れ葉のごとく、暖を取る場所を探してさまよっている。そんな中、我ら骨董屋は ニンジンをぶら下げられた馬 のごとく、壁の向こうから届くかもしれない“買取依頼”という甘い音色をただひたすら待ち続けている。すると──一本の電話が鳴った。

「掛軸と屏風が部屋中に散らばっているんですが、買取お願いできますか?」

ありがたや。掛け軸、屏風。骨董屋にとっては “俗に言うニンジン” が、まさに視界に入ったかのような局面である。すぐさま車に道具箱を詰め込み、現地へ向かう。案内された先には、まさに “掛軸・屏風の山” が広がっていた。中国の水墨画に始まり、水彩画、掛軸、屏風と、その乱雑さはまるで“美術品の倉庫”ではなく、“趣味の残骸置き場”と呼ぶにふさわしい。

奥様曰く、ご主人が生前、中国や台湾との取引の中で「これいいよ、買っときなさい」と勧められるがままに美術品を購入し、しかしご子息にはその趣味が一切通じず「できればすべて売却したい」とのこと。なるほど。購入時には「将来の資産価値」などという甘い囁きがあったのかもしれないが、今となっては“需要減少”の波に押されて“二束三文的現実”の波にさらされているわけである。

「了解しました」――そう答えると、いよいよ仕事開始。まずはひとつずつ巻物や掛軸を拝見。ざっと見たところ、ほとんどが1970年代、つまり昭和終盤の作品で、しかも作者はよく知られていない。美術史に名前を残すほどの人ではなく、これまであまり脚光を浴びなかった方々の作品ばかり。そういう“マイナーな掛軸”が山ほど。これを「いつか誰かが欲しくなるだろう」と待ち望んで並べておくのも一興だが、世の中の需給は冷めており、値段も「冷蔵庫の中で縮んだバナナ」のように縮んでいる。

しかし、そんな中でもひとつ“当たり”を発見した。掛軸の中に、一行書の作品が混ざっていた。達筆。筆の勢い、墨の流れ…見るからに“渋い”。よくよく見れば、作者は福岡のドン、あの (玄洋社を率いたあの頭山先生である)。これは嬉しい。骨董屋として、少々心が踊った。やはり“名前”があるというのは強みである。だが、ここで甘い蜜を思わずしゃぶってしまってはならない。曰く「以前ほどの需要がなくなった」――その言葉が、我が骨董業界の現実をずん、と突き刺した。

独特な書体ですね/掛軸 買取 福岡
独特な書体ですね

時代が変われば価値観も変わる。昔は「この人が書いたなら」と目を輝かせた客も、今は「ふーん、頭山か…」で終わる。まぁ、それはそれで世の流れと諦めるしかあるまい。ということで、この作品の買取価格は、過去の栄光に照らせば“控えめ”なものとなる。「ありがたい作品だが…」と前置かれた後に続くのは、必ず「ただし」という二文字。骨董屋たるもの、その「ただし」を受け入れねばならない。

その後、残りの屏風や掛軸、絵画などもすべて査定し、棚卸しを済ませた。中国・台湾の取引相手に勧められるがまま買ったという“ほどほど大量の古美術品たち”は、ひとつひとつ値段を付けられ、そして「買取可能」であるという結論が出た――めでたしめでたし。しかしその“めでたし”は、熱狂的な高額買取ではなく、あくまで「在庫整理」「需給に即した価格」での落ち着いたもの。

さて、ここで少し軽妙な皮肉を一つ。昔、掛軸が“資産”と言われた時代があった。取引先で「掛軸は寝かせて置けば値が上がる」と言われ、それを信じて山ほど仕入れた方々。しかし今、その掛軸たちを前にしているのは、「寝かせたらカビが生える」かもしれない、というリアルな声である。時代の波は予告なくやってきて、ニンジンを前に「さあどうぞ」という声が、「あ、お預かりしますけど値段は…」と低くなってしまうのである。

さらにもう一つ。 “古美術品取引”というと華やかな世界に見えるかもしれないが、実際は倉庫の中で黄ばみと戦い、湿気と埃と戦い、さらには“誰が買うの?”という問いにいつも答えを探している。買取依頼の電話が来たときには「やった!」と思うが、その裏には「果たして売れるか」という冷めた現実がある。今回も、頭山先生の掛軸に一筋の光明を見たものの、それ以外はそこまでの“花”とはならなかった。

ご子息曰く「趣味ではないので、できれば全て売却したい」とのこと。ええ、そのお気持ちはよくわかる。趣味で山積みされた掛軸や屏風が、リビングを圧迫し、家賃も湿度も気になり、さらには「このままだと誰も手を付けず、ホコリだけが積もる」という恐怖にまで発展している。だからこそ“今売る”という選択肢が現実的になる。私たち骨董屋は、その“処理班”でもある。夢のある取引もあれば、ただの“倉庫整理”もある。さて今回はどちらかと言えば後者だが、それでもありがたい仕事である。

いざ値段を提示し、ご契約。奥様には「これで片付きますね」と声をかけ、ほっとした笑顔をいただいた。ご子息も「ありがとうございます」と頭を下げられた。そう、我ら骨董屋の使命は「思い出を整理しつつ、物に新しい巡りを用意する」こと。そして、景気の風が冷たくとも、我々はニンジンを前に足を止めず、ただただ待ち続けるのである。

最後に一句、

掛軸よ 時代の風を 浴びつつも
ニンジンは遠く 馬は待ちにけり

この掛軸については下記で詳しくお話しておりますので最後までお付き合いください。宜しくお願い致します。

買取品の詳細

シミが多いです/骨董品の買取は福岡玄燈舎
シミが多いです

◇この「頭山満の書」はすっきりとした一行書で桐箱に入った掛軸でした。残念ながらシミがたくさんあり状態は良いとは思えない物でした。ありがとうございました。

買取査定額

◇頭山満作品の買取査定額もしくは評価額ですがまず第一に状態と時代そして作品の内容、そして共箱などあればより高価買取&できます。ご自宅に掛軸や書が御座いましたら一度拝見させてください。もちろん状態や時代、作者、作品でもお値段は変わりますのでご了承ください。

 

■過去の作品買取例

立憲政友会・古写真  70,000円
頭山満「不動」 40,000円
頭山満「天真」35,000円
頭山満 『日本魂』25,000円 他多数

頭山満とは?

頭山満と立雲の落款/掛軸の買取も福岡玄燈舎
頭山満と立雲の落款

頭山満――「玄洋社の頭領」にして明治・大正の“黒幕”

頭山満(とうやま みつる)(1855年~1944年)は、幕末の福岡藩に生まれ、明治・大正・昭和初期を通じて日本の政財界・軍部・右翼思想界に大きな影響を及ぼした人物である。表舞台に立つことは少なかったが、裏で多くの政治活動・国策・革命支援などを行い、「黒幕」「影のフィクサー」として知られた。その影響力は伊藤博文、山縣有朋から、後の大川周明、北一輝、さらには中国の孫文にまで及ぶ。


■ 幕末から明治維新:尊皇攘夷の息子として

頭山満は1855年(安政2年)、筑前国那珂郡住吉村(現在の福岡市博多区)に生まれた。父・頭山伊介は尊皇攘夷派で、倒幕運動にも参加した志士であった。その影響を強く受けた満は、少年期より国を想い、儒学や兵法を学びつつ武道に励む。

明治維新後、政府による急速な西洋化政策に対し違和感を覚えた頭山は、次第に民間から国を動かす「民権運動」や「アジア主義(後の大アジア主義)」へと傾倒していく。


■ 玄洋社の創設と活動

1879年(明治12年)、頭山は福岡で「向陽社」を創設。これは後に「玄洋社」と改称され、日本最初の国粋主義団体のひとつとして知られるようになる。玄洋社は、以下のような思想と活動を持っていた。

  • 尊皇思想(天皇を中心とした国家)

  • 国粋主義(日本の伝統と独立を重視)

  • 反外来思想(特に欧米からの価値観や干渉への警戒)

  • アジア主義(後の大アジア主義)(日本を中心としたアジア連携構想)

頭山満は、玄洋社を単なる思想結社ではなく、情報収集や人材育成、外交的活動(時に諜報・工作活動)を行う「行動する組織」へと育てていった。


■ 孫文との関係と中国革命支援

頭山満の国際的な活動の中でも特筆すべきは、中国の革命家・孫文(そんぶん)との関係である。清朝打倒を掲げる孫文は、日本亡命中に玄洋社の支援を受けており、頭山は金銭的援助だけでなく、庇護・人脈紹介など多方面で支援した。

玄洋社は「脱亜入欧」ではなく「興亜(アジアの連携)」を掲げていたため、孫文のようなアジア解放運動に強い共感を抱いた。孫文も頭山満に対し「義の人」として深い敬意を表し、互いに同志的な絆を築いていった。


■ 日本国内での政治的影響力

表舞台には出なかったが、頭山満の影響力は明治政府や政党、軍部にまで及んだ。

▷ 与えた影響(人脈・後継者)

  • 犬養毅(後の首相):玄洋社と関係が深く、五・一五事件で暗殺された際も「頭山門下」として知られた。

  • 大隈重信・伊藤博文・山縣有朋:対立と協力を繰り返した政界の重鎮たち。

  • 大川周明・北一輝:後の昭和期の国家主義・アジア主義思想家たちにも頭山の影響が見られる。

▷ 政治事件・関与

  • 日露戦争(1904年):開戦前夜、世論形成や後方支援などで関与。

  • 韓国併合:伊藤博文が暗殺された背景に、朝鮮問題をめぐる複雑な工作があり、頭山周辺も関わっていたとされる(直接証拠は乏しいが、思想的背景が一致)。

  • 大正政変(1913年):桂太郎内閣を倒した政変でも、頭山の影響力が裏で動いたと噂された。


■ 晩年の姿勢と戦争への態度

昭和期に入っても頭山は政界・軍部に強い影響力を残していたが、自らは権力を求めず、あくまで「背後から国を導く」立場を貫いた。昭和に入り、軍部が台頭し国家主義が急速に強まる中、頭山の姿勢もより慎重になっていった。

太平洋戦争開戦(1941年)時には既に高齢であったが、開戦に対しては明確な賛否を語らず、むしろ**「日本のために祈る」**という超然的な姿勢を見せたという。時には戦争の行方を案じ、軍部の強硬路線に対して周囲に懸念を漏らしたともされる。


■ 影響と評価――「右翼の父」か「民間外交の先駆者」か

頭山満の評価は極めて分かれる

▷ 賛美的評価

  • 日本の自主独立を真剣に考え、欧米追従に抗した人物。

  • アジア主義を掲げ、中国の革命家孫文を支援するなど、真の国際主義者でもあった。

  • 政界の「黒幕」でありながら、自身は公職を望まず、権力に固執しなかった。

▷ 批判的評価

  • 国家主義・民族主義に傾きすぎ、後の日本軍国主義の下地を作った。

  • 非合法活動・工作政治・暴力団的手法(実際、右翼団体や暴力との関係もあった)に近い行動を容認していた。

  • 民主主義的手続きを軽視し、「強き意志」に頼る政治思想を広めた。


■ 死去とその後

頭山満は1944年(昭和19年)に死去。享年90。彼の死は「一つの時代の終わり」と評されたが、その思想的系譜は戦後の日本右翼にも脈々と受け継がれた。戦後、玄洋社は解散したが、その影響は戦前日本の右翼思想・民族主義に大きな足跡を残している。

 

参考サイト

玄洋社記念館

玄洋社跡碑

■その他の買取品目

 

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