
福岡市南区で広重の浮世絵集を買取りました!

★写真はtremolo3247@gmail.com若しくはLINEからお願いします。
◇骨董屋の冬支度と、広重が運んできた五十三次の福の神
いよいよ福岡も11月に突入である。
つい先日まで暑い暑いと文句を垂れていたのに、気がつけば世間はクリスマスだ、おせち料理だ、年賀状だと騒ぎ始めた。日本人というのは実に忙しい民族である。正月を迎えるために一年中働き、正月が終われば次の正月の心配をする。これでは一年365日、正月の準備をしているようなものだ。
もっとも我々骨董屋も他人のことを笑ってはいられない。
この時期になると、骨董屋仲間の顔つきが妙に険しくなる。別に世界情勢を憂いているわけでも、国家財政を心配しているわけでもない。
冬場に売る品物が足りないのである。
昔話に「アリとキリギリス」というのがあった。夏の間せっせと働いたアリは冬を越し、歌って遊んでいたキリギリスは寒さに震えるという、勤勉な日本人がいかにも好みそうな教訓話だ。
ところが骨董屋という生き物は、このアリとキリギリスを足して二で割り、そこへ少々の欲と酒を混ぜたような人種である。
秋口からせっせと骨董品を買い集め、倉庫に貯め込み、正月を迎える。そして寒風吹きすさぶ一月、二月には、その貯め込んだ品物を一つ、また一つと売り払って食いつなぐ。
アリのように働いているつもりだが、暮らしぶりはキリギリスそのもの。
しかも困ったことに、我々は品物が売れると喜び、売れなければ酒を飲む。どちらに転んでも酒だけは減るという、経済学者も頭を抱える商売である。
さて、そんな骨董屋の冬支度の真っ最中に、一本の買取依頼が舞い込んできた。
今回の行き先は福岡市南区。
お話を伺えば、古い掛軸や絵巻物、書画などがいろいろあるという。
「古いものがいろいろあります」
この一言ほど骨董屋の心を揺さぶる言葉はない。
なにしろ「古い」の基準は人それぞれである。江戸時代を古いという方もいれば、昭和50年代の結婚式の引き出物を古美術と呼ぶ方もいる。
我々としては前者を期待して出向くのだが、現実は後者であることが多い。
それでも電話を切った途端、頭の中では狩野派だの円山応挙だの、果ては雪舟までが勝手に登場する。まだ品物を見てもいないのに、脳内だけはすでに重要文化財級の大騒ぎである。
欲深い人間の想像力というのは、実にたくましい。
そんな妄想を車に積み込み、相方とともに南区のお客様宅へ向かった。
到着してご挨拶を済ませると、早速、掛軸やら書画やらが次々と運ばれてきた。
まずは掛軸から拝見する。
松竹梅、鶴亀、旭日、富士山……。
いやはや、めでたい。実にめでたい。
これだけおめでたい図柄が揃っていれば、正月が三年分くらいまとめてやって来そうな勢いである。
しかし、めでたいことと値段が付くことは、残念ながら別問題なのだ。
正月用の掛軸というのは昔の家庭にはよくあった。床の間に掛ければ家内安全、商売繁盛、無病息災。まことに結構なことである。
ところが昨今、肝心の床の間が絶滅危惧種になりつつある。
新築住宅には床の間どころか、仏壇を置く場所すらない。掛軸を飾ろうにも壁には大型テレビが鎮座し、その下ではロボット掃除機が我が物顔で走り回っている。
鶴亀もこれでは立つ瀬がない。
昔は一家の繁栄を願って掛けられた縁起物が、今では骨董屋に持ち込まれて「これ、いくらになりますか」と尋ねられる。
世の中、何がめでたいのか分からなくなってきた。
そんなわけで掛軸の査定は、なかなか厳しいものとなった。
こちらも商売である以上、何でもかんでも高値を付けるわけにはいかない。正直に事情をご説明しながら、一点一点拝見していく。
すると今度は、古い絵巻物が二本ほど出てきた。
紐を解き、そろりそろりと巻物を広げてみる。
おや……。
これはまた、なんとも艶めかしい。
そこに描かれていたのは、昔の殿方が人目を忍んで楽しんだという、いわゆる「春画」であった。
しかも二本。
春画とは、江戸時代などに制作された男女の情愛を題材とする絵画や版画である。今でこそ美術史や風俗史の研究対象として、海外の美術館でも高く評価されているが、昔は人前で堂々と広げるような代物ではなかった。
しかし考えてみれば、人間の営みというものは江戸時代も令和も大して変わらない。
時代が変われば着物が洋服になり、行灯がスマートフォンになるだけで、人間の好奇心と煩悩だけは少しも進歩しないのである。
もっとも現代人は、指先一つで世界中の情報を手に入れることができる。
それに比べ、昔の殿方は巻物を一巻ずつ広げて楽しんでいたのだから、実に手間のかかる娯楽であった。
ある意味、こちらの方がよほど文化的だったのかもしれない。
横で相方がこちらを見ている。
「ずいぶん熱心に見てるねえ」
いやいや、これは仕事である。
あくまでも古美術品の査定であり、決して個人的な興味から眺めているわけではない。
そう説明すればするほど、なぜか説得力がなくなっていく。
骨董屋という商売、時には家族にすら理解されない孤独な職業なのである。
さて、そんなこんなで査定も終盤。
掛軸に書画、絵巻物と拝見したが、正直なところ、ここまでは大きな収穫とは言い難い。
今日も骨董屋の冬支度は空振りか……。
そんな諦めにも似た空気が漂い始めた、その時である。
お客様が奥から、何やら古い版画の一揃いを持ってこられた。
「こちらも見てもらえますか」
何気なく拝見した私は、思わず姿勢を正した。
なんと、歌川広重の『東海道五十三次』ではないか。
しかも一枚や二枚ではない。
揃いである。
先ほどまで正月掛軸の鶴亀とにらめっこしていた骨董屋の目が、突然、生き返った。
人間というのは正直なものだ。
価値ある品物を前にすると、腰痛も肩こりも一時的に消える。医者に診せても治らない症状が、広重一枚で改善するのだから、骨董品には不思議な効能がある。
歌川広重といえば、江戸時代を代表する浮世絵師。

なかでも『東海道五十三次』は、日本橋から京都までの東海道の宿場風景を描いた、浮世絵風景画の金字塔ともいえる作品である。
雨に煙る庄野、雪景色の蒲原、旅人たちが行き交う日本橋。
単なる名所案内にとどまらず、旅する人間の息遣いや、その土地の空気、季節の移ろいまでも感じさせるところに広重の魅力がある。
現代なら新幹線であっという間の道のりを、昔の旅人は草鞋を履いて何日もかけて歩いた。
それを思えば、広重の描いた東海道には、便利さと引き換えに我々が失ってしまった何かが残っているようにも思える。
もっとも、私が今、最も気にしているのは旅情ではなく査定額である。
風流を語りながら、頭の中ではそろばんを弾く。
これぞ骨董屋の悲しい性分というものだ。
もちろん、広重の作品といっても、すべてが高価というわけではない。
浮世絵は木版画であり、肉筆画とは異なる。また、当時の摺りなのか、後年の復刻版なのか。保存状態、摺りや色彩、紙質、版の違いなどによっても評価は大きく変わる。
ましてや『東海道五十三次』は、長い年月の間に数多くの復刻や複製が制作されてきた作品である。
有名だから高い、古そうだから高い、というほど骨董品の世界は甘くない。
そんなことを考えながら一点一点確認していく。
幸い、今回のお品は揃いとしての魅力もあり、十分に評価できるものであった。
これはありがたい。
先ほどまで冬眠寸前だった私の商売魂が、むくむくと起き上がってきた。
早速、お客様に作品の内容や評価のポイントをご説明し、できる限りの査定額をご提示した。
結果は無事に商談成立。
高価買取をさせていただくことができた。
いやはや、ありがたや、ありがたや。
本日の福の神は、七福神でもなければ床の間の鶴亀でもなかった。
江戸からはるばる東海道を旅してきた歌川広重であった。
思えば、広重が描いた東海道には五十三の宿場がある。
そして我々骨董屋にも、毎日のように立ち寄る宿場がある。
ある日は茶道具の山、ある日は古い掛軸の束。またある日は、持ち上げるだけで腰が悲鳴を上げる大きな壺や仏像。
晴れの日もあれば雨の日もある。期待して出かけた先で空振りすることもあれば、何の気なしに訪ねたお宅で思いがけないお宝に巡り合うこともある。
人生も商売も、結局は旅のようなものなのだろう。
ただし広重の旅人と我々が決定的に違うのは、旅の目的である。
あちらは京を目指して歩く。
こちらは売れそうな骨董品を目指して走る。
なんとも風情のない話である。
こうして本日の買取も無事終了。
車に積み込んだ品物を眺めながら、ようやく胸をなでおろした。
これで冬場の食い扶持が少しは増えたというものだ。
もっとも、仕入れた品物が売れなければ、ただ倉庫が狭くなるだけである。
アリのように貯め込んだつもりが、気がつけばガラクタの山に埋もれて冬を越す。
そんな骨董屋も世の中には少なくない。
さて、今夜は広重に感謝して一杯やるとしよう。
東海道五十三次を眺めながら飲む酒は、さぞかし旨かろう。
ただし、我が家の大蔵大臣からは「仕入れたばかりで、まだ一円も儲かっていないでしょう」と釘を刺されそうである。
ごもっとも。
江戸の旅人は五十三の宿場を越えて京へ向かったが、私の旅は今夜も冷蔵庫のビールへと向かう。
どうやら骨董屋の旅路には、終着駅というものがないらしい。
ではまた……。
買取品の詳細
今回の買取品は「共同通信社」より出版された歌川広重作品でした。東海道五十三次の作品ですがすべて揃っておりシミや破れなどのダメージもない美品でした。お勧めは気に入った版画を額にいれて季節ごとに交換するのが良いと思われます。

買取査定額

◇歌川広重の買取査定額もしくは評価額ですが発行枚数や状態と時代、そして鑑定書や鑑識があればより高価買取できます。ご自宅に版画や浮世絵が御座いましたら一度拝見させてください。もちろん状態や時代、作者、作品でもお値段は変わりますのでご了承ください。
■過去の歌川広重の作品買取例

伊勢二見ヶ浦図 掛軸 450,000円
名所江戸百景 両国花火 350,000円
今昔対照江戸百景280,000円
江ノ島図 150,000円 他多数
歌川広重とは?
歌川広重(うたがわ ひろしげ、1797~1858年)は、江戸時代後期を代表する浮世絵師であり、葛飾北斎と並んで日本の風景版画を世界的な芸術へと高めた人物です。
代表作『東海道五十三次』や『名所江戸百景』に見られるように、広重は日本各地の風景、四季の移ろい、雨や雪、旅人の姿などを情緒豊かに描きました。
北斎が大胆な構図と力強い造形によって自然の壮大さを表現したのに対し、広重は自然の中に生きる人間の営みや、その場に漂う空気、季節の気配を描くことに優れていました。
1.歌川広重の生い立ち
歌川広重は寛政9年(1797年)、江戸の八代洲河岸(現在の東京都千代田区丸の内付近)に生まれました。
本姓は安藤、幼名は徳太郎、のちに重右衛門と名乗りました。
父の安藤源右衛門は江戸幕府の定火消同心で、広重の家は幕府の消防業務に携わる武家でした。
つまり、広重はもともと絵師の家に生まれたわけではありません。
幼い頃から絵を描くことに関心を持ち、少年時代にはすでに絵の才能を示していたと伝えられています。
文化6年(1809年)、13歳の頃に両親を相次いで亡くし、家督を継いで定火消同心となりました。しかし、絵画への情熱を捨てることはありませんでした。
当時の江戸では、歌舞伎役者や美人画を描いた浮世絵が庶民の間で大変な人気を集めていました。木版画による浮世絵は、現代でいえば人気俳優のブロマイドや観光ポスターのような存在でもあったのです。
広重もこうした浮世絵文化に強く惹かれ、本格的に絵師への道を志すようになります。
2.歌川派への入門と絵師としての出発
文化8年(1811年)頃、広重は浮世絵師・歌川豊広の門下に入りました。
豊広は歌川豊春の弟子で、美人画や風景画、挿絵などを得意とした絵師です。
広重は師匠の名から「広」の一字を受け、歌川広重と名乗るようになります。
入門当初は役者絵、美人画、武者絵、狂歌絵、版本の挿絵など、当時一般的だった浮世絵の仕事を手がけていました。
ただし、この頃の広重はまだ人気絵師とはいえず、画業だけで生活していたわけではありません。
家業である火消同心の仕事を続けながら絵を描いていたと考えられています。
文政6年(1823年)には火消同心の職を親族に譲り、次第に絵師としての活動に力を注ぐようになりました。
転機となったのは、天保年間に入ってからの風景画への取り組みです。
当時、江戸では旅行や名所巡りへの関心が高まり、街道や各地の景勝地を描いた浮世絵が人気を集めていました。
また、葛飾北斎が『冨嶽三十六景』を発表し、風景版画という分野に新しい可能性を示していました。
こうした時代背景の中、広重は独自の風景表現を確立していきます。
3.『東海道五十三次』による大成功
『東海道五十三次之内 蒲原 夜之雪』は
天保4~5年頃(1833~1834年)に刊行された保永堂版『東海道五十三次』は、広重の名声を決定づけた作品です。
江戸の日本橋から京都の三条大橋まで、東海道の53の宿場と出発地・終着地を合わせた全55図からなる連作です。
この作品が画期的だったのは、各地の名所を描くだけでなく、そこを旅する人々の感情や自然の変化まで巧みに表現したことでした。
雨に打たれながら坂道を急ぐ旅人、雪深い宿場町、朝焼けの中を出発する大名行列など、画面の中にはさまざまな物語が存在します。
広重が実際に東海道を旅した経験については、幕府の御馬献上に関係する一行に同行したという説が知られています。ただし、その旅の詳細や制作との直接的な関係には研究上の議論もあります。
いずれにしても、実際の景観、既存の地誌や絵画資料、そして広重自身の豊かな想像力が融合して、この傑作が誕生しました。
『東海道五十三次』の成功によって、広重は風景画の第一人者として広く知られるようになったのです。
4.歌川広重の代表作品
広重は生涯に数多くの作品を残しましたが、特に重要なものを紹介します。
① 東海道五十三次之内(保永堂版)
・庄野 白雨
突然の激しい雨に襲われ、坂道を急ぐ旅人たちを描いた傑作。
・蒲原 夜之雪
静寂に包まれた雪の宿場町。広重の雪景色を代表する一枚。
・日本橋 朝之景
江戸の出発点である日本橋と、朝の活気ある人々の姿。
・箱根 湖水図
山々を大胆な色面で表現した、力強い構図が印象的な作品。
これらの作品では、同じ街道でありながら、それぞれ異なる天候や時間、季節が設定されています。
特に「庄野 白雨」の斜めに降り注ぐ雨の線と、「蒲原 夜之雪」の静まり返った白い風景は、広重の自然描写の両極を示す名品といえるでしょう。
② 名所江戸百景
安政3年(1856年)頃から刊行された、広重晩年の集大成ともいえる作品です。
江戸の名所を縦長の画面に描いたシリーズで、初代広重による作品は118図に及びます。
特に有名なのが次の作品です。
「大はしあたけの夕立」
突然の夕立に見舞われ、橋を渡る人々が慌てて雨宿りを求める姿を描いています。激しく交差する雨の線、暗く沈んだ空、遠景の川面などが絶妙に組み合わされています。
「亀戸梅屋舗」
画面の手前に梅の幹を大きく配置し、その向こうに梅園を望む大胆な構図が特徴です。後にゴッホが模写したことでも知られています。
「深川洲崎十万坪」
上空を飛ぶ鷲の視点から、広大な雪景色を見下ろした作品です。鳥の姿を大胆に手前へ配置することで、独特の遠近感を生み出しています。
『名所江戸百景』は、単に江戸の景観を記録した作品ではありません。
広重が長年培ってきた構図、色彩、季節感、遠近法などの技術が結集された、浮世絵風景画の到達点と評価されています。
③ 木曾海道六拾九次
江戸の日本橋から京都へ至る中山道を題材とした連作です。
渓斎英泉が制作を始め、途中から広重が引き継ぎました。全70図のうち、広重が46図を担当しています。
東海道とは異なり、山間部の宿場や険しい峠、木曽路の深い自然などが描かれています。
代表的な「洗馬」では、夕暮れの川辺と静かな山並みが美しく表現され、広重の叙情的な風景画の魅力がよく表れています。
④ 六十余州名所図会
嘉永6年(1853年)頃から刊行された、日本各地の名所を描く全69図のシリーズです。
阿波の鳴門の渦潮、各地の山岳、湖沼、寺社など、広重の風景表現が日本全国へと広がった作品です。
実際に訪問していない土地については、既存の地誌や絵画資料などを参考にしたと考えられています。
⑤ 花鳥画
広重は風景画だけでなく、鳥や花を描いた花鳥画にも優れた作品を残しました。
燕、鶴、鴨、鷺などの鳥と、梅、桜、菖蒲などの草花を組み合わせた作品には、自然への繊細な観察眼が表れています。
俳句や和歌を添えた作品も多く、絵画と文学を融合させた日本独特の美意識が感じられます。
5.広重作品の特徴と魅力
広重の作品が現在も世界中で高く評価されている理由は、その優れた風景表現にあります。
雨・雪・霧などの自然描写
広重は「雨の広重」と称されるほど、雨の表現に優れていました。
激しく降る夕立、静かに降り積もる雪、朝霧に包まれた山々など、自然現象を画面全体の雰囲気として表現しています。
例えば「庄野 白雨」では、斜めに走る細い雨の線によって、雨の強さだけでなく風の方向まで感じさせます。
一方、「蒲原 夜之雪」では、白く残された雪と暗い空との対比によって、雪の日特有の静けさを表現しています。
自然を単なる背景ではなく、作品の主役として扱っている点が特徴です。
広重ブルーと呼ばれる美しい藍色
広重の風景画を語るうえで欠かせないのが、鮮やかな青色です。
江戸時代後期には、海外から輸入された人工顔料のベロ藍(プルシアンブルー)が浮世絵に使用されるようになりました。
この顔料は従来の植物性の藍に比べて鮮やかで、深みのある青色を表現することができました。
広重はこれを巧みに使い、空や海、川などに透明感と奥行きを与えました。
特に空の上部を濃くし、地平線へ向かって淡くする「ぼかし摺り」は、広重作品の重要な特色です。
大胆な構図と遠近法
広重は西洋の遠近法にも関心を持ち、独創的な構図を生み出しました。
例えば『名所江戸百景』では、画面の手前に大きな木や鳥、橋などを配置し、その奥に遠景を描く手法が多用されています。
これは現在の写真撮影における広角レンズや大胆なトリミングにも通じる表現です。
画面の一部をあえて切り取ることで、見る者に画面の外側まで想像させる効果があります。
人間味あふれる人物描写
広重の風景には、旅人、農民、商人、飛脚など、江戸時代の庶民が数多く登場します。
雨の中を慌てて走る人、茶屋で休む旅人、荷物を担いで坂道を登る人々。
こうした人物は小さく描かれていますが、画面全体に生活感や物語性を与えています。
雄大な自然の中にも人間の温かさや、時にはユーモアを感じさせるところが、広重作品の大きな魅力です。
6.葛飾北斎との違い
広重を理解するうえで興味深いのが、同時代に活躍した葛飾北斎との比較です。
◎葛飾北斎
大胆な造形と力強い動き。自然の迫力や壮大さを表現。
◎歌川広重
繊細な情景描写と叙情性。季節や時間、人々の生活を表現。
北斎の風景には、自然に対する強い探究心と造形的な迫力があります。
一方、広重の作品には、その場所に実際に立っているかのような臨場感や、旅先でふと感じる寂しさ、懐かしさがあります。
北斎が自然の力を描いた絵師ならば、広重は自然の情緒を描いた絵師といえるかもしれません。
7.晩年と最期
広重は晩年まで精力的に制作を続けました。
安政年間には『六十余州名所図会』『名所江戸百景』などの大作に取り組み、円熟した技術を発揮しています。
特に『名所江戸百景』は、広重が生涯をかけて描いてきた日本の風景表現の集大成でした。
しかし、安政5年(1858年)、江戸でコレラが大流行します。
広重もこの年の9月6日、数え62歳で亡くなりました。死因はコレラと伝えられていますが、確定的な記録があるわけではありません。
墓所は東京都足立区の東岳寺にあります。
広重の死後、弟子の重宣が二代広重を襲名し、その後も広重の画系は受け継がれていきました。
8.西洋美術に与えた影響
広重の作品は、19世紀後半にヨーロッパで巻き起こったジャポニスム(日本趣味)の流行によって、西洋の画家たちにも大きな影響を与えました。
特に広重に強い関心を寄せた人物が、オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホです。
ゴッホは広重の『名所江戸百景』から「亀戸梅屋舗」と「大はしあたけの夕立」を選び、油彩による模写作品を制作しました。
その作品では、広重の構図を踏襲しながら、より鮮やかな色彩や力強い筆致を加えています。
ゴッホ美術館によれば、ゴッホは広重の風景版画を約50点所有していたとされています。
広重の作品が西洋の画家たちに示したのは、従来の写実的な遠近法にとらわれない、新しい絵画表現の可能性でした。
大胆な構図、平面的な色彩、輪郭線の強調などは、西洋近代美術の発展にも重要な刺激を与えたのです。
9.広重作品の鑑賞と骨董品や古美術としての価値
広重作品を鑑賞する際には、絵柄の美しさだけでなく、木版画ならではの制作技術にも注目したいところです。
江戸時代の浮世絵は、一般的に絵師、彫師、摺師、版元による共同作業によって制作されていました。
そのため、同じ図柄であっても、初期の摺りと後期の摺りでは色彩や細部が異なる場合があります。
骨董品として広重の浮世絵を見る場合、特に重要なのは以下の点です。
-
初摺・後摺の違い: 初期の摺りには、繊細なぼかしや細かな彫りが残っていることがあります。
-
保存状態: 日焼け、退色、虫食い、裏打ち、裁断の有無など。
-
版元や改印: 制作年代や版の系統を判断する手掛かりとなります。
-
真贋と制作時期: 江戸時代の摺りなのか、明治以降の後摺・復刻版なのかという違い。
-
肉筆画か木版画か: 広重本人が筆で描いた肉筆作品と、版画作品では評価方法が大きく異なります。
特に『東海道五十三次』は人気が高く、明治以降も数多くの復刻版が制作されています。
古そうな和紙に摺られているという理由だけで、江戸時代の作品と判断することはできません。
最後に…
歌川広重は、江戸時代の庶民が親しんだ街道や名所を、世界に通用する芸術作品へと昇華させた絵師でした。
その魅力は、自然を正確に写し取ることだけではなく、雨の日の肌寒さ、雪の日の静けさ、旅先で迎える朝の清々しさなど、人間の感覚に訴える風景を生み出したことにあります。
『東海道五十三次』や『名所江戸百景』を眺めていると、そこには江戸時代の人々の暮らしや、日本の四季の美しさが今も生き生きと残されています。
広重が描いた風景の中には、すでに失われてしまった町並みや自然も少なくありません。
それでも、その作品を通して私たちは約180年前の日本を旅することができます。
広重は、単なる浮世絵師という枠を超え、日本の風景と人々の記憶を後世に伝えた、偉大な風景画家だったといえるでしょう。


■参考サイト
■その他の買取品目
★骨董品買取の福岡玄燈舎では古美術品の他、アンティークや掛軸、茶道具、書道具、絵画、仏像、勲章、中国陶磁、甲冑など多彩な骨董品を査定買取しております。お見積りだけでも構いませんのでお気軽にご相談ください。












































