福岡市西区にて石川欽一郎の掛軸を買取致しました。日本の掛軸もありましたが戦前に台湾におられたお宅で朝鮮や台湾、中国の書なども沢山譲って頂き高価買取致しました。中には石川欽一郎の掛軸もあります。
石川欽一郎は明治から昭和前期にかけての洋画家。静岡県出身です。22年大蔵省印刷局工生となり,浅井忠,川村清雄にまなびます。明治美術会,巴(ともえ)会,光風会に参加し大正2年日本水彩画会の改組の際に参加し,水彩画の普及につくしました。大正13年に台湾に渡り、台北師範学校(現:国立台北教育大学)嘱託として美術教育の普及に務め、台湾水彩画会を創立し、台湾美術展の審査員などを歴任します。光風会会員、日本水彩画会会員。昭和20年9月10日死去。75歳。水彩画家であり、風景画を得意としました。石川さんは1871年静岡県出身の西洋画家で、英国の水彩画を独学で学んだ。2度にわたって台湾で絵画を教え、台湾に西洋画を初めて紹介し、多くの弟子を育成したことで台湾美術への恩人とされている。石川さんは旧幕臣の家に生まれ、もともと美術に関心はあったが、家計が苦しく、逓信省電信学校を経て大蔵省印刷局に入った。独学で水彩画を学び、英語が得意だったので、陸軍参謀本部の通訳官となって1907年に台湾へ赴任します。石川欽一郎は1907~16年の間に兼務の形で台北中学校や国語学校で美術を教えます。さらに1924~32年には、台北師範学校(国語学校が前身、後の台北教育大学)で美術教師を務め、計17年間も台湾で過ごすことになります。
この間に育てた弟子からは、倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、藍蔭鼎など、後に台湾美術界で地位を築いた人材となった者もいます。石川は日本人と分け隔てなく台湾人と接したので、台湾人の生徒からは特に慕われます。教官に義務付けられていた官服は着用せず、背広にちょうネクタイというイギリス紳士風の姿も人気のあった理由らしいですね。石川の教えを受けた若者たちの中からは、日本に渡り、東京美術学校(現代の東京芸術大学)などでさらに高いレベルの教育を受け、日本の帝展などに入選して、一流の画家への道を登った者も少なくないそうです。一方で、台湾人の教員養成を目的にした師範学校であったため、多くの台湾人の教え子が教師となり、石川から教わった西洋画をさらに台湾社会の末端にまで伝えていきました。代表作品に「満州の風景」「森の道」「台北城外」「湖畔」「穂高朝晴」などがあります。
尚、個人的には石川欽一郎の絵画「田舎の早春」が好みで藁葺き屋根の農家の前に一本の道が画面の背後に通じ、前掛けをした女性の添寝姿が描かれています。その背後には、人家と桃色の花をつけた樹木が描かれ、かつて日本でしばしば目にした早春の風景が偲(しの)ばれる作でもあります。
比較的堅実な表現から、大下藤次郎と親交を始めた頃の作品と推察され、作者のごく初期の作品と位置付けられます。ありがとうございました。
骨董品買取の福岡玄燈舎では石川欽一郎の掛軸や絵画を買取ります。お見積りや査定だけでも構いませんのでお気軽にお問い合わせください。福岡県内は無料出張査定致します。