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福岡市西区で陶楽の水指を買取りました!
五月の足音というのは、いつの時代も律儀なようでいて、どうにも気まぐれである。暦の上では春から初夏へと衣替えを促してくるくせに、朝は妙に冷え込み、昼には額にじっとり汗をにじませる。まるで気分屋の常連客のように、こちらの体調などお構いなしに出入りしてくるのだから、年季の入った骨董屋の身には少々こたえる。若い頃は季節の変わり目など風流の一言で済ませていたものだが、いまや私の関節が天気予報より正確に気圧の変化を知らせてくる始末である。
それでも、不思議なもので、こういう落ち着かない陽気の日に限って、骨董品の買取の依頼というものは舞い込む。まるで天気と同じで、こちらの都合など斟酌せず、「今だ」とばかりに電話が鳴る。受話器の向こうの声は、どこか遠慮がちで、それでいて決意を秘めている。長く使ってきた品を手放すというのは、誰にとっても小さな覚悟がいるのだろう。
さて本日の行き先は福岡市西区。昭和の香りがまだしっかりと壁に染みついているような住宅である。こういう家というのは、外観からすでに語り始めている。軒の影、少し色あせた雨戸、門扉の金具のくすみ具合――どれもが「簡単には手放さない年月」を物語る。もっとも、いざ中に入れば、その年月が押し入れの奥でひっそりと次の持ち主を待っていることも多いのだが。
迎えてくださったのは茶道の先生。背筋の伸びた佇まいに、長年の所作がにじむ。こういう方の家から出てくる品は、たいてい静かに良い。声高に価値を主張することもなく、ただそこにあるだけで十分という顔をしている。もっとも、時代はそういう控えめな品に必ずしも優しくはない。派手さや分かりやすさが重宝される世の中では、静かな品ほど値段もまた静かになりがちである。なんとも皮肉な話だ。
まず拝見したのは京焼の茶碗。手に取ると、軽やかでありながらどこか芯がある。釉薬の流れが、計算された偶然を装っているあたり、いかにも京焼らしい気取りがある。次に高取の茶入れ。こちらは一転して、土の表情が前に出る。焼きの力強さがあり、扱う人の覚悟を試すような風格がある。道具というものは正直で、使い手の姿勢をそのまま映す鏡のようなところがある。
さらに茶掛けや棗が続く。棗の艶は、使われてきた年月の分だけ深みを増すが、最近はその「使い込む」という行為自体が贅沢になりつつあるらしい。新品同様のまま仕舞われ、いざ手放すときに「ほとんど使っていませんから」と一言添えられる。確かに状態は良いのだが、どこか道具としての役目を果たし損ねたような寂しさも漂う。人も物も、多少は使い古されてこそ味が出るのだが、どうも今の時代は「新品らしさ」に価値を見出しすぎるきらいがある。

最後に出てきたのが仁清写しの水指や茶碗。いわゆる写し物である。写しというと、どこか本歌に及ばぬものという印象を持たれがちだが、実際には写しの中にも作り手の解釈や工夫が織り込まれている。ただし市場というのは無情なもので、「写し」という言葉一つで評価を半分ほどにしてしまうこともある。まるで肩書きで人を測るかのようで、骨董の世界もなかなか世俗的である。
全体を見渡すと、やや新しめの茶器が多い印象ではある。しかし、どれも手を抜かれたものではない。良い材料を使い、確かな技術で仕上げられている。いわば「きちんとした良品」である。ところが、この「きちんとした良品」というのが、実は一番扱いに困ることがある。飛び抜けた古さも、際立った個性もない代わりに、欠点もない。市場ではこういう品が妙に評価されにくい。人で言えば、真面目で礼儀正しいが、話題にはなりにくいタイプとでも言おうか。
依頼者である先生は、静かにこちらの査定を見守っている。長年連れ添った道具たちを前にして、思うところがないはずがない。それでも「もう使わなくなりましたから」と淡々と言う。その言葉の裏には、時代の流れと、自身の生活の変化があるのだろう。茶道という世界もまた、昔と同じ形では続かない。弟子の数、稽古の頻度、道具にかけられる時間と余裕――どれも少しずつ変わってきている。
査定を終え、提示した金額に対して、先生は少し考えた後、こちらの顔を見てうなずいた。結果として、依頼者希望価格での買取となった。こちらとしては正直なところ、もう少し抑えたい気持ちがなかったわけではない。しかし、こういう場面では数字だけがすべてではない。品物の来歴、持ち主の思い、そして「手放す決断」そのものに対して、どこまで応えられるかが問われる。商売とはいえ、ときに損得の帳尻を超えたところで折り合いをつけることも必要である。
それにしても、こうして集まってくる茶道具たちを見ていると、ふと考えさせられる。かつては人の生活の中に当たり前のようにあったものが、いまでは「整理の対象」として扱われる。その一方で、どこかの店先では「昭和レトロ」だの「和の心」だのと銘打って、新しい商品が並ぶ。古いものを手放し、新しい「古さ」を買う――なんとも器用な時代である。
骨董屋という商売は、その矛盾の上に成り立っている。人が手放したものを、別の誰かに「価値」として渡す。言い換えれば、忘れられかけたものに、もう一度居場所を与える仕事とも言える。もっとも、その過程でこちらがしっかりと利益をいただくのだから、あまり美談ばかりでもないのだが。
本日の買取は、ありがたい一日であった。良い品に出会えたこともそうだが、それ以上に「道具と人の時間」に少しだけ立ち会えた気がする。こういう日があるから、この仕事はなかなかやめられない。
帰り道、夕方の風がまた少し冷たくなっていた。朝の寒さとは違う、どこか湿り気を帯びた風である。どうやら明日もまた、気まぐれな天気になりそうだ。まあ、それも悪くない。どうせ電話は、こちらの都合などお構いなしに鳴るのだから。
ではまた。
この仁清写しの水指については下記で詳しくお話しておりますので最後までお付き合いください。宜しくお願い致します。
買取品の詳細

◇この「陶楽の水指」は「波千鳥」柄でとても上品な京焼でした。蓋も焼物で模様も小柄の千鳥や波が描かれてあります。もちろん共箱付きの美品で仁清写しの水指でした。茶道の場でもなくてもインテリアとしても和の設えで重宝される作品でした。ありがとうございました。
買取査定額

◇仁清写しの買取査定額もしくは評価額ですがまず作家、次に絵柄や品目、ほかには刻印や共箱などあればより高価買取&できます。ご自宅に茶道具や茶器が御座いましたら一度拝見させてください。もちろん状態や時代、作者、作品でもお値段は変わりますのでご了承ください。
■過去の作品買取例

十六代永楽善五郎(即全)造 即中斎書付 仁清写 扇流しの茶碗 300,000円
林谷五郎 作 仁清写 銀七宝 鴛鴦香合 200,000円
永楽善五郎(妙全)造『惺斎書付』仁清写竜田川水指 150,000円
代大樋長左衛門造『堀内宗完(不仙斎)書付』仁清写水指 80,000円 他多数
森里陶楽とは?

三代 陶楽
1959年 京都にて生まれる
1977年 京都市日吉が丘高校美術コース日本画卒業
1981年 京都府陶工高等専門学校卒業
同年、手塚玉堂に師事
二代目陶楽の元で作陶を始める
工学博士山本徳治氏の釉薬研究所「美泥塾」に入塾する
京焼・清水焼伝統工芸士の称号を受ける
1996年 三代目陶楽を襲名
京焼・清水焼伝統工芸士の称号を受ける
全国伝統工芸品にて日本商工会議所会頭賞を受ける
全国各地の百貨店で個展を開催
◆高台寺窯・森里陶楽について語る場合、まず押さえておくべきは、この名が単なる作家個人の称号にとどまらず、京都の伝統的な焼物文化、特に仁清写しの系譜の中で育まれてきた「様式と姿勢」を体現しているという点である。現代の工芸作家の多くが個性や革新性を前面に出すのに対し、森里陶楽はむしろ「継承」と「洗練」を主軸に据えた存在であり、その点において独特の立ち位置を占めている。
高台寺窯という名称は、京都東山の高台寺に由来する。高台寺は、豊臣秀吉の菩提を弔うために北政所(ねね)が建立した寺院として知られ、桃山文化の余韻を色濃く残す場所である。この地名を冠する窯は、当然ながらその文化的背景を意識せざるを得ない。つまり、高台寺窯とは単なる製陶の場ではなく、「桃山から江戸初期にかけての美意識」を現代に伝える役割を担った存在といえる。
森里陶楽は、その高台寺窯の当主として活動してきた陶工であり、特に野々村仁清の作風を基盤とした「仁清写し」において高い評価を受けている。仁清は色絵陶器の完成者とも称される存在で、その優美で格調高い意匠は、後世の京焼に決定的な影響を与えた。森里陶楽は、この仁清の様式を単に模倣するのではなく、現代の茶道具として成立させるための調整と工夫を加えながら制作を続けてきた。
略歴としては、森里陶楽は京都に生まれ、伝統的な京焼の技術を基礎から学んだのち、高台寺窯を継承する形で活動を本格化させた。詳細な年譜は公開情報によって多少の差異があるものの、昭和後期から平成にかけて茶道具制作の分野で着実に評価を高めていった点は共通している。特に茶道界との結びつきが強く、各流派の好みに応じた作品制作にも携わってきたことから、「実際に使われる道具」としての完成度に重点が置かれている。
代表作品としてまず挙げられるのは、仁清写しの茶碗である。森里陶楽の茶碗は、白化粧の上に施される色絵の発色が柔らかく、どこか抑制の効いた華やかさを持つ。例えば桜や紅葉、流水、扇面といった古典的なモチーフが用いられることが多いが、その配置には余白を活かした構成が見られ、決して装飾過多にはならない。この「描き込みすぎない勇気」が、結果として品格を生み出している。
また、水指も重要な作品群である。水指は茶席において視覚的な存在感が大きく、空間全体の印象を左右する道具である。森里陶楽の水指は、丸みを帯びた安定感のある造形に、季節感を意識した意匠が配されることが多い。全面を埋め尽くすような絵付けではなく、あえて空間を残すことで静けさを演出する点に特徴がある。これは単なるデザイン上の選択ではなく、茶の湯における「間」の感覚を器に落とし込んだものといえる。
さらに、棗や香合といった小品においても森里陶楽の技量は顕著に現れる。これらはサイズが小さい分、わずかな筆の乱れや色の濁りが目立ちやすく、極めて高度な技術が要求される領域である。森里陶楽の作品では、金彩や色絵が慎重に重ねられ、過度に主張しない範囲での装飾が施されている。結果として、手に取ったときに初めて分かるような繊細な美しさが生まれている。
作品全体の特徴をまとめると、「均整の取れた優雅さ」と「実用性の高さ」が挙げられる。現代の工芸作品の中には、鑑賞性を重視するあまり実用性が犠牲になっているものも少なくないが、森里陶楽の作品はあくまで茶席での使用を前提としている。そのため、手取りの良さや口当たり、重量バランスといった要素にも細やかな配慮がなされている。

一方で、骨董品の市場評価という観点から見ると、森里陶楽の作品はやや複雑な位置にある。仁清写しというジャンル自体が、本歌である仁清作品の存在を前提としているため、どうしても「比較」の枠組みから逃れられない。いかに完成度が高くとも、「写し」であるという事実が評価の上限をある程度規定してしまうのである。この点は、作り手にとってもコレクターにとっても悩ましい問題であり、日本の工芸における「写し文化」の宿命ともいえる。
しかし、別の視点から見れば、森里陶楽の価値はむしろそこにあるとも言える。すなわち、仁清の美を現代の茶席で実際に使える形で提供しているという点である。美術館に収蔵されるような古作は、もはや日常的に扱うことが難しい存在となっている。その代わりとしてではなく、「現代における最適解」としての仁清写しを提示している点に、森里陶楽の意義がある。
また、制作姿勢にも注目すべき点がある。森里陶楽は、過度な自己主張を避け、あくまで様式の中で完成度を高める方向を選んでいる。これは一見すると保守的にも映るが、実際には極めて高度な判断を要する態度である。なぜなら、既に完成された様式の中で差異を生み出すには、わずかな線や色の違いに意味を持たせる必要があるからだ。その積み重ねが、最終的に作品全体の質を左右する。
総じて言えば、高台寺窯・森里陶楽は、「革新」ではなく「精度」によって評価されるタイプの陶工である。派手な変化や新奇性を求める人にとっては物足りなく映るかもしれないが、茶道具としての完成度や安定感を重視する立場から見れば、極めて信頼のおける存在である。
骨董品や古美術の現場においても、森里陶楽の作品はしばしば見かけるが、その評価は状態や意匠、箱書きの有無などによって大きく左右される。とはいえ、全体としては「堅実で質の良い京焼」という位置づけにあり、大きく値崩れすることも少ない。言い換えれば、派手さはないが安心感のある作家である。
■参考サイト

清水焼団地(陶楽窯)
森里陶楽の工房は京都・山科の清水焼団地にあります。
■その他の買取品目
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