源六焼買取りました!
有田焼の買取/福岡市博多区にて有田焼の古い蓋物茶碗を買取りました。
明治期の物でとても薄い作りで富士山と松の図柄がアンティークな有田焼でした。略歴には「安政6年2月7日生まれ。佐賀県嬉野(うれしの)の磁器産業の衰微をみてその振興に尽力。染め付けなどの研究をかさね,源六焼といわれる独自の磁器をつくりました。明治22年嬉野村長,32年佐賀県会議員となります。大正9年2月5日死去。62歳。」とありました。明治後半から大正時代に発展し,セントルイス万国博覧会万博 (1904) で銀メダルを受賞します。日英博覧会 (1910) で銀メダルも受賞。パナマ太平洋万国博覧会 (1915) でもメダルを頂いております。創始者の富永源六は、安政6年2月7日生まれで、瀬戸や京都などへ視察に行き技術を学び、国内向けの実用品や輸出用の磁器を作り、当時人気を博したと言います。絵付けが上手くまるでプリントのようですが、間違えなく手書きです。源六焼は1888年ころに富永源六が始めたそうです。
絵付けをした上から透明の釉薬(ゆうやく)をかける「釉下彩(ゆうかさい)」という技法が用いられ、
多彩な色合いが良好な状態で保たれるのが特徴です。その作品には
有田や平戸などの伝統的な高級磁器をもとに作られたものも多く、特に美術工芸品に関しては肥前磁器の伝統を受け継ぎつつさらに洗練させた印象を受けます。このあたり、富永源六と宮川香山はどこか通じるところがありますね。二人の経歴を見ると、その類似性にも納得です。その作品は欧州の貴族らに愛され、国内外の博覧会で賞を獲得するなどしましたが、昭和9年ころに、廃窯したという説と、戦後の混乱などで窯元の経営が行き詰まり、昭和40年代廃業したという説があります。ありがとうございました。
★平戸焼と有田焼の関係…
日本を代表する磁器である平戸焼と有田焼。同じ九州の肥前国(現在の佐賀県)で生まれながら、異なる歴史と個性を持つ両者は、磁器の海を渡る旅路において、互いに影響を与え合い、発展を遂げてまいりました。今回は両者の歴史的背景、技術的特徴、そして海外への輸出における役割を紐解き、磁器の海を渡る物語を描かせていただきます。
歴史的背景:朝鮮出兵と陶工の渡来
16世紀末、豊臣秀吉による朝鮮出兵は、日本の陶磁器史に大きな転機をもたらしました。朝鮮半島から連れ帰られた陶工たちは、各地で磁器生産の技術を広め、有田や平戸を含む肥前国一帯は、磁器の産地として発展していくこととなりました。
平戸焼:初期伊万里焼と海外への窓口
平戸焼は、初期伊万里焼と呼ばれる磁器の代表的な産地のひとつです。朝鮮出兵の帰還者によって技術が伝えられた平戸焼は、当時、海外貿易の拠点であった平戸港から、ヨーロッパや東南アジアへと盛んに輸出されました。
有田焼:磁器生産の集積地と技術革新
一方、有田焼は、17世紀初めに良質な陶石が発見されたことにより、磁器生産の中心地として発展していくこととなりました。技術革新にも積極的で、染付、金襴手、鍋島様式など、多彩な技法を生み出してきました。
技術的特徴:素地、釉薬、絵付け
平戸焼は、朝鮮半島の陶磁器の影響を受け、白磁に青磁や鉄絵、金襴手などの絵付けが特徴です。素地は比較的粗く、高台は低く、厚みのある造形が特徴です。一方、有田焼は、良質な陶石を用いた硬質な素地と、透明度の高い釉薬が特徴です。染付や金襴手、鍋島様式など、精緻な絵付け技法で知られています。
海外への輸出:東西貿易と磁器の伝播
平戸焼は、初期段階において、海外貿易の窓口としての役割を果たし、ヨーロッパや東南アジアに広く輸出されました。一方、有田焼は、江戸時代後期からヨーロッパへの輸出量を増加させ、18世紀には「伊万里」の名で世界中に知られるようになりました。
近代以降:伝統の継承と新たな挑戦
明治時代以降、両窯はそれぞれ伝統を守りつつ、新たな技術を取り入れながら発展を続けてまいりました。現代では、伝統的な技法を受け継ぐ作品だけでなく、現代的なデザインを取り入れた作品も制作されています。
最後に:磁器の海を渡る物語の未来
平戸焼と有田焼は、互いに影響を与え合いながら、磁器の海を渡る旅路を進んできました。それぞれの歴史、技術、そして海外への輸出における役割は、日本の磁器史における重要な位置を占めています。
骨董品買取の福岡玄燈舎では有田焼を買取致します。お見積りだけでも構いませんのでお問い合わせください。福岡県内は無料出張査定致します。