ゴールデンウイークというものは、どうにも人をせわしなく見せる装置らしい。福岡の街も例外ではなく、駅前には「どこかへ行かなければならない人々」が、まるで義務でも課せられているかのようにスーツケースを引きずり、足早に行き交っている。転がるキャスターの音は軽快だが、その実、彼らの心は重いのか軽いのか、こちらには知る由もない。ただ一つ言えるのは、その音が妙に規則正しく、そして妙に空虚だということだ。
一方で、我々骨董商はというと、その流れから半歩どころか三歩ほど外れた場所にいる。「日々是好日」などと気取って言うほど達観しているわけでもないが、少なくともスーツケースに未来を詰め込むような忙しさとは無縁である。代わりに動かすのは段ボール箱だ。しかも中身は未来ではなく、過去である。人によってはガラクタと呼び、我々は歴史と呼ぶ。その呼び名の違いこそが、商売の根幹をなしているのだから、世の中とは実に都合よくできている。
意味もなく右へ左へと箱を動かす。意味がないように見えて、実はある。いや、あると言い張らなければならない。そうしなければ、ただの片付け係になってしまうからだ。骨董商というのは、言い換えれば「意味を発掘する職業」である。埃をかぶった物に値札をつけるための理屈を探す。それを美意識と呼ぶか詭弁と呼ぶかは、買う側の懐具合次第だ。
そんな折、電話が鳴る。骨董品、美術品の買取依頼である。この瞬間だけは、どんな哲学も吹き飛ぶ。ありがたい、という言葉がこれほど素直に口をついて出ることもない。人間、結局のところ現金な生き物である。骨董屋も例外ではない。
行き先は福岡市郊外の宗像市。車を飛ばす、という表現がぴったりくる程度にはアクセルを踏む。もっとも、本当に飛んだら商売どころではないのだが、そのくらいの勢いはある。向かう先が「古い住宅の中の倉庫」と聞いた時点で、頭の中には二つの結果が浮かぶ。空振りか、ホームランか。間をとってヒット、などという中途半端な結末は、この手の現場ではあまり期待できない。
到着した倉庫は、期待を裏切らない外観をしていた。つまり、何も語らない。だが中に入れば話は別だ。段ボールの山、山、そしてまた山。人はこれを「整理されていない」と言うが、持ち主にとっては「まとめてある」状態なのだろう。その認識のズレこそが、我々の仕事を生む。
腹をくくる、という言葉はこういう時に使う。ひと箱ずつ開ける。昭和の置物が顔を出す。どこかで見たような犬やら少女やら、愛嬌はあるが値段はつきにくい面々だ。食器も出てくる。かつては祝い事の席を彩ったであろうが、今では静かに眠っているだけである。時代というのは残酷で、役割を終えたものには沈黙しか与えない。
掛軸、屏風。古いものには違いないが、古ければ良いというものでもない。むしろ中途半端に古いものほど扱いに困る。新しければ実用品、古ければ美術品。そのどちらにもなりきれないものは、ただの「古い物」でしかない。
だが、煎茶道具がまとまって出てきたあたりで、空気が少し変わる。「これはいけるかもしれない」と思う瞬間は、どんな現場にもある。根拠は曖昧だが、経験がそう囁く。もっとも、その囁きはしばしば裏切るのだが、それでも耳を傾けてしまうのが人情というものだ。
南宋官窯の花瓶です
そして、それは唐突に現れた。古い木箱の中、まるで「ここにいる」と言わんばかりに収まっていた青磁。中国のものだとすぐに分かる。さらによく見ると、南宋の官窯の系譜を思わせる気配がある。もちろん、真正の南宋期そのものではない。そこまで都合よく歴史は転がっていない。それでも、百五十年ほどの時を経ているとすれば、それだけで十分に語る価値はある。
色の肌、というのは不思議な言い方だが、これがしっくりくる。青磁の青は、単なる色ではなく、時間の層をまとっている。光の当たり方で表情を変え、見る者に解釈を委ねる。その曖昧さこそが、美の本質なのかもしれない。あるいは、値段をつける側にとって都合のいい余白と言うべきか。
この一点で、査定の空気は一変する。段ボールの山は、もはや障害物ではなく前座になる。人は分かりやすい成果に弱い。どれだけ他が平凡でも、ひとつの「当たり」がすべてを正当化する。これもまた、商売の現実だ。
交渉は思いのほかスムーズに進んだ。持ち主も、その価値を完全には理解していないが、何となく「良いものらしい」と感じている。その曖昧な確信が、取引を成立させる。もし完全に理解していたら、こちらの出番はなかっただろう。知らないことは損だと言われるが、知りすぎることもまた、機会を失う原因になる。
こうして買取は無事に成立した。段ボールの山は、来た時よりも少しだけ意味を持ったように見える。実際には何も変わっていないのだが、人間の目とはいい加減なものである。
帰り道、再び街の喧騒に合流する。スーツケースを引く人々は相変わらず忙しそうだ。彼らがどこへ向かい、何を得るのかは分からない。ただ一つ確かなのは、こちらもまた別の意味で旅をしているということだ。過去から現在へ、そして誰かの手へと渡っていく骨董品の流れの中を、ゆっくりと歩いている。
キャスターの音はしない。代わりに、段ボールを持ち上げたときのわずかな軋みがある。それは軽快ではないが、妙に現実的で、そしてどこか安心できる音だ。
ゴールデンウイーク。人々が未来へ急ぐその横で、過去を抱えてのんびり歩く者もいる。どちらが正しいわけでもない。ただ、どちらにも値段がつくかどうかは、また別の話である。