生野祥雲斎の竹籠買取りました!
福岡市南区で茶道具、掛軸、花瓶、皿、茶器、書道具、尺八など買取り致しました。竹細工の資料にはでは十二代景行天皇が九州熊その征伐の帰りに別府に立ち寄った際、お伴の膳伴(台所方)が、良質のシノダケの多いことを発見します。そこでメゴ(茶碗かご)をつくったことが『日本書紀』景行記に出てくるそうです。竹細工は生活のための日用品として作られ始めましたが材料は豊富にありました。別府市はもちろん、大分県に竹は多く、何しろ真竹の生産量は日本一なのです。これを利用して、最初のうちは農家の副業として始まりましたが明治になると、別府八湯は広く知られるようになり、観光客が急増します。その多くは湯治客でその人たちが滞在中の生活用品として使ったのを皮切りに、次第に土産品として求められるようになります。観光の思い出から、近所に土産として配り、全国的に別府名産が知られました。
この竹網の花入れは大分県の作家物で生野祥雲斎の作品ということです。祥雲斎は1904年(明治37年)、大分県大分郡石城川村(現別府市)内成に生まれ石城尋常高等小学校を卒業後、1923年(大正12年)、19歳で佐藤竹邑斎に師事して竹工芸を学びます。1925年(大正14年)、21歳の時に独立し夢雀斎楽雲と称しますが、後に妙心寺管長の神月徹宗に名付けられた生野祥雲斎を用いるようになります。そして1927年(昭和2年)から大分市に居を構え1938年(昭和13年)から1946年(昭和21年)まで大分県工業試験場別府工芸指導所で商工技手として後進の指導にあたったそうです。1940年(昭和15年)の文展(紀元二千六百年奉祝美術展)に初入選以来、文展に出品し、1943年(昭和18年)には『銘心華賦』が特選となります。第二次世界大戦後は、純粋な造形美を志向した創作を行い、1956年(昭和31年)に『怒濤』が日展北斗賞、1957年(昭和32年)に『炎』が日展特選・北斗賞を受賞。1967年(昭和42年)には竹工芸初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。ありがとうございました。
★別府八湯…別府の温泉は、通称「別府八湯(べっぷはっとう)」と呼ばれる八箇所の温泉郷を中心に湧き出しています。 その中の別府八湯は、別府(べっぷ)・鉄輪(かんなわ)・観海寺(かんかいじ)・明礬(みょうばん)・亀川(かめがわ)・柴石(しばせき)・堀田(ほりた)・浜脇(はまわき)と呼ばれる温泉郷で構成されています。車で福岡から2時間足らずで行けますので年に数回、遊びに行きますが温泉の源泉が色々あるので楽しめます。
★佐藤竹邑斎…本名は佐藤智世太といいます。大分県生まれ高級花籠の名人としてご高名だった方です。東京や京都でも籠の染色などを学び皇室にまで作品を献上されたり、大正15年(1926年)のフィアデルフィア万国博覧会では、金賞受賞されるなど竹工芸界に多大な功績を残された方なのです。彼は小学校を卒業した後に竹細工の修行を始めました。東京と京都で籠の染色を学んだ後、竹邑斎は1922年ごろに大分に戻って自身の作品を作り始めたのです。竹邑斎は高級な花かごの名人で、皇室に7個のかごを献上し、また祥雲齋の師匠でもあります。残念なことに、竹邑斎は28歳という若さで急逝してしまいます。
★十二代景行天皇…景行天皇(けいこうてんのう)は、日本の第12代天皇です。『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇といい日本武尊(ヤマトタケル)の父ともいわれています。
★シノタケ(篠竹)…篠竹(シノタケ)は、稈長が3~6メートル、直径1~2センチ程度の大きさ、篠竹も竹という名前で呼ばれていものの笹の仲間です。女竹、カワタケ、ニガタケ、土壁の下地材として使われてきたので小舞竹とも言われます。しなやかさと共に粘りと強さがあり昔から各地で米研ぎざる、飯籠、魚籠、腰籠など暮らしや仕事に欠かせない竹細工に多用されてきた竹の一つですね。
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