坂高麗左衛門の作品買取ました!
陶磁器(萩焼)の買取/骨董品・福岡…福岡市西区で茶道具や萩焼、九谷焼、薩摩焼、有田焼などの陶磁器や掛軸を買取りいたしました。この萩焼の鉢は 九代坂高麗左衛門の鉢です。土味の良い陶器で貫入や焼き締めなどの風景も素晴らしい茶道具の鉢ですね。十一代の鑑識もある上物です。
9代坂高麗左衛門は8代坂高麗左衛門の孫として生まれました。本名を道輔、号を韓峯・韓岳といいます。
1877(明治10)年、9代坂高麗左衛門を襲名しました。1915(大正4)年、大正天皇御大典記念京都博覧会の出品作品が宮内省に買い上げられました。松下村塾の幼年組の一人として、吉田松陰が江戸へ護送される直前に薫陶を受けました。青年期は明治維新の変革の中に過ごしました。萩藩御用窯の坂家も廃藩置県により藩からの援助がなくなって独立自営を強いられますが、御用窯廃止という危機を乗り切り、各地の内国博覧会に出品して名声を高めていきました。
技術、学識を兼ね備えた温厚な人物であったとされ、近代萩焼を代表する名工として名高いです。
作品には陶印が入った物もありますが、入っていない物が多いです。坂窯は、毛利輝元によって萩に連れてこられ、兄李勺光と共に萩焼を創始した朝鮮人陶工の李敬を初代としており、三輪休雪の三輪窯と共に萩藩の御用窯を務め、萩焼の本流を代々受け継いでいた家柄でした。毛利氏が萩に城を移した後、萩城下松本村に開窯、二代藩主毛利綱広より“高麗左衛門”の名を賜ります。以来、初代より坂高麗左衛門と名乗り、2004年当時の坂窯当主、十二代高麗左衛門まで窯が継承された。しかし、十二代の坂高麗左衛門が亡くなられた後、坂高麗左衛門の名跡は空位だったが、2011年4月に十一代の四女(十二代の義妹)が十三代高麗左衛門を襲名することにななりました。ありがとうございました。
★毛利輝元とは…豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった武将です。長州藩の藩祖でもある方です。下の図は年表です。参考までに…
1553年(0歳)安芸国吉田郡山城に生まれる。(幼名、幸鶴丸)
1565年(12歳)元服し、輝元と名乗る。同年に初陣を飾る。
1571年(18歳)祖父・元就が死去。当主として独立する。
1572年(19歳)従五位下の官位を叙せられる。
1574年(21歳)右馬頭に叙任する。
1582年(29歳)秀吉と和睦。これ以降秀吉に臣従するようになる。
1588年(35歳)秀吉から羽柴と豊臣の名を下賜され、従四位下・参議に任じられる。
1595年(42歳)従三位・権中納言に任じられる。五大老の1人に任命される。
1600年(47歳)関ヶ原の戦いで西軍の総大将に就任するも敗北、領地を大幅に削られる。
1604年(51歳)長州藩の本拠地となる萩城の築城を開始。
1623年(70歳)正式に隠居する。
1625年(72歳)萩の四本松邸で死去。
★三輪休雪とは…三輪休雪(みわ きゅうせつ)は山口県萩市の萩焼窯元で三輪窯の当主が代々襲名している陶芸作家としての名跡でもあります。一番著名な方は人間国宝の11代ですが当代は第13代です。13代は1951年、山口県萩市に十一代三輪休雪(壽雪)の三男として生まれます。1975年に米サンフランシスコ・アート・インスティテュートに留学します。81年に帰国後、「不走庵 三輪窯」において作陶に入り萩焼の概念を打ち破る独創的な表現が常に注目を集めてきました。そして2019年、十三代三輪休雪を襲名します。下に十一代の陶歴がありますので参考にされてください。
1910年 山口県萩市椿東無田ヶ原に三輪窯九代雪堂の三男として生まれる(本名 節夫)
1941年 三重県津市千歳山窯で川喜田半泥子に師事
1955年 この年陶号を「休」と称し、対外出品活動を始め、9月通産省「全日本産業工業展」に入選し、選抜されてアメリカへ出陳される
1957年 第四回「日本伝統工芸展」初入選(以後第20回まで連続)
1960年 日本工芸会正会員となる
1967年 十代休雪隠居して休和と号し、十一代休雪を襲名する
1972年 日本工芸会理事となる
1976年 紫綬褒章受章
1979年 山口県立美術館顧問
1982年 勲四等瑞宝章受章
1983年 重要無形文化財(萩焼)保持者(人間国宝)に認定される
1990年 勲四等旭日小綬章受賞
2002年 萩市名誉市民に推挙される
2003年 壽雪と改名し、長男龍作が十二代休雪を襲名する
2004年 日本陶磁協会制定五十年記念賞受賞
2006年 「萩焼の造形美 人間国宝 三輪壽雪の世界展」(東京国立近代美術館工芸館、山口県立萩美術館・ 浦上記念館などを2007年にかけて巡回)
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