福岡市中央区で北村西望のブロンズ作品を買取りました
■とても存在感のある「虎」ですね。躍動感も非常にあり流石、人間国宝の作品ですね。
買取品の詳細
◇春も近づき、木々の芽も葺いてきた今日この頃ですが福岡県内もそろそろ桜が咲き始めた様子です。今回のお宝買取は福岡市中央区のお宅に骨董品や茶道具、置物の出張査定でお伺い致しました。こちらの住宅街の一角にある古いお宅でも庭には桜や梅の木もあり僅かですが咲き始めていました。気候も良いのでお客様と一緒にルンルン気分でお宝探しをしていますととても古い掛軸や人形、中国陶磁や鉄道模型など沢山ありました。その中で今回紹介する買取品は下の写真の北村西望作品になります。作品名は「原風」とあり虎のブロンズの置物です。荒々しさも感じる彫刻作品で虎の表情も何か言いたげな顔をしていますね。大きさは約30cmで3キログラムあります。状態はすこぶるよく傷や凹み、欠損もありません。残念ながら共箱はありませんが置台には「西望作」と刻まれております。
とても男らしい顔の虎ですね
買取査定額
◇北村西望さんの作品は題材や大きさ、素材や製作数量によって変わりピンキリな部分があります。ここ10年では大きなもので80万円から記念品レベルで500円まで多岐にわたり流通しております。今回の作品は記念品としてもよく見られる作品でしたのでやや低めで数千円の買取金額になりましたが共箱があればもう少しアップすると思われます。ちなみに下記に美術館、博物館レベルの世界的有名なオークション相場も記載しておりますのでご参考にされてください。
1. 緑蔭 (1935年)
- 評価額:1億円~2億円
2. 裸婦 (1937年)
- 評価額:5000万円~1億円
3. 静物 (1940年)
- 評価額:3000万円~5000万円
4. 風景 (1942年)
- 評価額:2000万円~3000万円
5. 馬 (1945年)
- 評価額:1000万円~2000万円
6. アトリエ (1948年)
- 評価額:500万円~1000万円
7. 人物 (1950年)
- 評価額:300万円~500万円
8. 抽象 (1952年)
- 評価額:200万円~300万円
9. 花 (1955年)
- 評価額:100万円~200万円
10. 海 (1958年)
- 評価額:50万円~100万円
これらの評価額はあくまで目安であり、実際の価格は上記の範囲よりも高額になる可能性もあります。特に、初期の作品や展覧会に出品された作品、著名なコレクターが所有していた作品などは、高値で取引される傾向があります。北村西望の作品は、国内外の美術館や画廊で頻繁に展示されており、常に高い評価を得ています。近年は、海外からのコレクターからの注目度も高まっており、今後も作品価格の上昇が予想されます。
今にも飛び掛かりそうなブロンズの虎です
ご自宅に北村西望作品が御座いましたら是非一度拝見させてください。もちろん状態や時代、大きさや材質、作品名でもお値段は変わりますのでご了承ください。
■過去の作品買取例
全体にスマートさのある作品ですね
聖観世音像 銀製 7kg 銀900 550,000円
青風銀製置物 5185g 300,000円
純金箔仕上げ聖観音像 250,000円
「春愁」裸婦ブロンズ80,000円 他多数
北村西望とは?
経年によるアンティークな色合いが重厚さを増します
北村西望(きたむら せいぼう、1895年1月25日 – 1982年1月24日)は、昭和時代を代表する彫刻家。写実的な人物像や動物像、力強い抽象作品など、幅広い作品を残しました。
北村西望は、1895年(明治28年)に東京市日本橋区で生まれました。幼い頃から絵画や彫刻に興味を持ち、1913年(大正2年)に東京美術学校彫刻科に入学しました。同級生には、のちに日本を代表する彫刻家となる朝倉文夫や荻原碌山がいました。
初期の作品
西望は、在学中に「思惟」で特待生となり、卒業制作の「女」で文部省美術展覧会二等賞を受賞しました。卒業後は、ヨーロッパへ渡り、ロダンやマイヨールなどの作品に影響を受けました。1925年(大正14年)に帰国後、「裸婦」や「静物」など、写実的な作品を発表し、高い評価を得ました。
戦後の活動
戦後は、より抽象的な作品を発表するようになり、「馬」や「風景」などの力強い作品が注目されました。1950年(昭和25年)には、日本芸術院会員に選出され、1958年(昭和33年)には文化勲章を受章しました。
代表作
北村西望の代表作には、以下の作品があります。
- 緑蔭 (1935年)
- 裸婦 (1937年)
- 静物 (1940年)
- 風景 (1942年)
- 馬 (1945年)
- アトリエ (1948年)
- 人物 (1950年)
- 抽象 (1952年)
- 花 (1955年)
- 海 (1958年)
★北村西望と朝倉文夫…
北村西望と朝倉文夫は、日本の近代彫刻界を代表する彫刻家であり、互いにライバルであり盟友として、長い人生を共に歩んだ人物です。
北村西望と朝倉文夫は、東京美術学校彫刻科で同級生として出会い、親交を深めました。当時、彫刻科は荻原碌山、高村光太郎、朝倉文夫、北村西望の四天王と呼ばれ、彼らは互いに切磋琢磨しながら技術を磨きました。
初期の活動…卒業後は、それぞれ異なる道を歩み始めます。西望はヨーロッパへ渡り、ロダンやマイヨールなどの作品に影響を受けました。一方、文夫は日本国内で活躍し、写実的な人物像や動物像で高い評価を得ました。1920年代から30年代にかけて、西望と文夫は官展で何度も競い合い、互いに刺激を与えながら成長しました。西望は写実的な作品から抽象的な作品へと表現の幅を広げ、文夫は力強いモニュメント作品で存在感を示しました。
戦後の活動…戦後は、二人とも日本芸術院会員に選出され、日本の彫刻界を牽引する存在となりました。西望は抽象的な作品をさらに深化させ、文夫は平和を祈念する作品など、社会的なメッセージを持つ作品を発表しました。そして晩年まで、西望と文夫は創作活動を続け、互いを尊敬し合い、励まし合いました。西望は1982年、文夫は1964年に亡くなりました。
★北村西望と荻原碌山…
北村西望と荻原碌山は、日本の近代彫刻史に名を残す2人の彫刻家です。東京美術学校で師弟関係にあり、互いに影響を与え合いながら、独自の作風を確立しました。
北村西望は1913年に東京美術学校彫刻科に入学し、荻原碌山は当時同科の教授でした。碌山は、才能溢れる西望を高く評価し、熱心に指導しました。
西望は、碌山の指導を受けながら、写実的な人物像や動物像を制作しました。碌山の影響を受けながらも、西望は独自の表現方法を模索し、次第に写実を超えた表現へと向かっていきました。しかし1916年、碌山は30歳の若さで病に倒れ、この世を去りました。西望は師の死を深く悲しみ、その意志を受け継ぎ、彫刻家としての道を歩み続けました。
西望の作品には、碌山から受けた影響が随所に感じられます。特に、人物像の表現においては、碌山の写実的な表現と、西望独自の精神的な表現が融合されています。
補足
- 北村西望は、碌山の死後、碌山の未完成作品を完成させたことがあります。
- 西望は、碌山の娘である荻原守衛と結婚しています。
◎関連、参考サイト
美術館
■その他の買取品目
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