仕覆(茶道具)買取ました!
骨董品買取の玄燈舎です。今回の出張査定は福岡市早良区です。
祖母の茶道具がたくさんあるとの事でお伺いいたしましたが古い織部焼や京焼、萩焼など数点買取させていただきました。掛軸や書道具も数点ありました。写真の織部焼にはとても古い上質な仕覆に包まれておりました。
仕覆(しふく) とは、茶入や薄茶器、茶碗、挽家などの道具類を入れる袋で、「仕服」とも書きます。
茶入の仕覆には、名物裂・古代裂が多く使用されていて、茶入によっては、名物裂の替袋(かえぶくろ)を何枚も持つものもあります。
茶席では、仕覆は、茶入、茶杓とともに客の拝見に供されます。
なお茶入に付属する、「袋」、「挽家(ひきや)」(仕覆に入れた茶入を保存するために木材を轆轤で挽いて作った挽物の容器)、「箱」、「包裂(つつみぎれ)」、その他の補装を「修覆(しゅうふく)」といい、修覆が仕覆となり、茶入袋の呼び名になったといいます。
種類の一つに金襴(きんらん)があります。平箔(ひらはく)という漆を塗った紙に金箔を置いて糸状に切ったものを織り込み、文様を作っています。金糸で文様を単色の生地に織りこみます。縦縞や格子の生地に金糸を使う模様もあります。大名物「円乗坊肩衝茶入」や「橋立茶入」などの仕覆に用いられています。
次に緞子(どんす)は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)で
模様を織る絹の織物です。光沢があって重量感があり、仕覆の中でも格が高いものです。
名物の茶入によく使われる仕覆です。大名物「油屋肩衝」「伊木肩衝茶入」「珠光文琳茶入」「宗悟茄子茶入」
などに使われて有名です。
間道(かんどう) は、しま模様があります。縦縞、横縞、格子縞などがあり、
中国広東地方で作られた絹織物であったことからこの名がついたようです。
千利休が間道を茶入の仕覆に使ったのが最初であるとされています。
大名物「志野丸壷」の仕覆として使われれる青木間道や、大名物「朝倉文琳茶入」の朝倉間道などが有名です。
次に錦(にしき)ですが二色かそれ以上の色糸を使い、一本の糸にして織ります。
金のような美しい織物として古くから重宝されてきました。大名物「油屋肩衝茶入」に使われています。
最後にモール(莫臥爾)ですが桃山時代にペルシャやポルトガルから渡った織り物です。
回々織、毛宇留、毛織などとも書き、元々は「mogol」というポルトガル語です。金や銀などを絹の糸に巻き付けて、文様を織り込み出したものです。金モールや銀モールという分け方もあります。
★織部焼とは…織部焼とは桃山時代頃、主に美濃地方で焼かれた陶器です。
志野焼や黄瀬戸と共に「美濃焼」と呼ばれることもあります。
織部焼は歪の形状を施し、市松模様や幾何学模様といった大胆な文様を施しています。また志野や黒茶碗で早くから試みられていた歪みの美の追求が沓形茶碗を産みました。これらの技術を駆使して生み出されたのが織部焼です。
そしてこの織部焼こそ豊臣秀吉の直命をうけた古田織部の指導の下,、美濃の森城主と美濃の陶工(窯集団)によって織部焼誕生が成し遂げられました。その装飾はそれまでの茶器とは大きく異なる点で織部焼は大量生産される一方で、文様は一つとして同じものがありません。織部焼は最初、千利休(せんのりきゅう)の弟子で桃山文化を彩った茶人「古田織部」(ふるたおりべ)が作りました。
当時、今でいうファッションリーダー的存在であった古田織部が茶の湯の世界で好んで使った事が最大の勝因でその時代に一世風靡致しました。ところで織部焼の印象的な緑はどこから来たのでしょうか?
実は南蛮貿易が盛んに行われた桃山時代、日本には、中国や東南アジアから様々な種類の焼物が入ってきました。
その中の一つに華南三彩があります。中国南部で作られた陶器で 鮮やかな緑に彩られた器は異国情緒を感じさせ、桃山の人々に珍重されました。そこから織部焼の緑は来たという説が強いです。
最後に織部焼の著名な作家です。
北大路魯山人
岡部嶺男
鯉江良二
鈴木五郎…などが挙げられます。ありがとうございました。
骨董品買取の福岡玄燈舎では茶道具を買取ります。お見積りだけでも構いませんのでお気軽にお問い合わせください。福岡市内県内は無料出張査定いたします。