古写真や絵葉書買取りました!
福岡県春日市にて戦前の絵葉書や写真帳、掛軸や茶道具、書道具などを買取致しました。この写真は満州事変前後の上海や大連の戦前絵葉書です。街並みや観光地、軍隊、文化や中国の人々の生活が写されています。特に上海は当時は東洋のパリと呼ばれたほど異文化が溢れていました。黄浦江に面して、ヨーロッパ建築の様式の建物が並び、百貨店のショーウインドウには流行の商品が飾られ、路面電車が走り、街路灯が灯りました。
競技場、ドッグレース場、ハイアライなどの賭博場、ダンス・ホール、茶館、魯迅も通った「上海大戯院」に代表される映画館などの歓楽の施設が出現します。租界を有したことによって、世界への窓口ともなった上海には、あらゆるモダンなものに溢れ、誰でもハリウッド映画やジャズなどのアメリカ文化、カフェなどのフランス文化などを、直接享受することができました。演劇や映画、『良友』や『上海画報』に代表されるグラフ雑誌をはじめとする様々な活字メディアにおける出版なども盛んになりました。女性は大胆に流行を追求し、新式の旗袍(チー・パオ)いわゆるチャイナドレスが流行します。これが上海租界時代と呼ばれていた華やかな時代でした。その一方、満州国は1931年9月18日、日本軍部中央と関東軍は、柳条湖 (りゅうじょうこ)において満鉄線路爆破事件を起こし、これを口実にして張学良 (ちょうがくりょう)の宿営北大営 (ほくだいえい)と奉天城を攻撃、翌日中には満鉄沿線主要都市を占領する軍事行動を開始します。さらに関東軍の吉林攻撃を口実に、手薄となった奉天方面に林銑十郎 (せんじゅうろう)朝鮮軍司令官は朝鮮軍を独断越境させさらに関東軍は南満州占領後、北満のチチハル、ハルビンを攻撃し、満州軍閥馬占山 (ばせんざん)の抵抗などに直面したが、1932年初頭までには北満の主要都市を占領し、満州全体を支配下に置きました。なお首都「新京」になりました。
★満鉄とは…南満洲鉄道株式会社という鉄道の会社です。日露戦争に勝利した後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約に基づき、東清鉄道南満洲支線(長春・旅順間鉄道)やその支線はロシアから日本に譲渡されました。この鉄道の事業および付属事業を経営する目的で1906年(明治39年)に設立された半官半民企業です。その後、日本の満洲における重要拠点となった会社です。満鉄が所有した機関車や列車などは現在でも大人気で、そのデザインはヨーロッパの洒落たデザインやインテリアを多く採用し当時の流行りだったアールデコ調の列車や機関車が多かったようです。
★上海租界とは…租界は、中国の開港場において、一定の地域を自国民の居留地として租借した諸外国が行政・警察権を行使する地域のことです。本来は単なる土地貸与に過ぎませんが、不平等条約によって治外法権・領事裁判権を得た列強は、その土地を事実上支配するようにしました。当時の中国からしてみれば屈辱以外の何物でもないですね。それは1845年11月の上海のイギリス租界に始まり、19世紀末に列強が清朝から天津、漢口、広州などに多くの租界地を獲得していきました。上海の租界はイギリス、フランス、アメリカが先頭に立って行われていました。そんな中、日本も1896年7月に締結された日清通商航海条約で、沙市・重慶・蘇州・杭州を認めさせ、宜昌から重慶までの長江と上海から蘇州・杭州に至る運河の航行権も得ました。場所的には現在の外灘エリアは主にイギリスとアメリカが共同租界を築き、淮海中路周辺にはフランス租界が築かれました。現在の虹口区には、共同租界の一部だった日本人居住区が存在し、1900年代初頭にはなんと10万人もの日本人が上海に暮らしていた言われております。1980年代に流行った「上海バンスキング」などでも判るように当時の文化や芸術が世界的にもとても華やかでモダンな文化でした。現在でも当時の場所にはインテリアや建物外観、内装など我々、骨董商のお手本になる物がたくさん残っているようですね。一度、機会がありましたら現地に行きたいものです。
ありがとうございました。骨董品買取の福岡玄燈舎では古い写真や絵葉書を買取ります。お見積りだけでも構いませんのでお問い合わせください。福岡県内は無料出張査定致します。受付年中無休。