大和雅墨買取りました/福岡市中央区
昨日は福岡市中央区にて書道具の墨や筆、掛軸や茶道具、鍔、柿右衛門など買取り致しました。
この墨は墨運堂の「大和雅墨」で2本は使用済みでしたが古墨ということで高価買取できました。
ありがとうございました。
中国の乾隆時代の墨の淡墨における透明感のある色調を基本に、
「大和雅墨」は昭和30年代初め、当時の和墨と区分する意味において、墨それぞれの特徴と色調(薄茶系、赤紫系、薄茶紫系、青系の黒、青墨、茶系の黒、茶紫系の黒等)を明記し19種類発売されました。現在は原材料の都合で16種類になっています。
墨には油煙墨と松煙墨の2つの種類があります。どちらも原料は植物性の「煤」ですが、
油煙は油(主に菜種油)を含んだ木片を燃焼させて煤を採取するのに対し、松煙は松の油分を含んだ木片を燃焼させて採取するため、墨の質が変わってきます。また、その採煙方法が大きく異なりその差異は一層大きくなります。従来和墨では油煙墨が高級で、松煙墨はその次と位置づけられていました。
おそらく、これは昔、原料となる油が高級品であったからではないかと思われます。
墨色で考えたときには松煙墨は作品によっては重厚さがあり、年代が古くなるにつれて墨色も変化し、濃淡の自在もあって面白いところもあります。
★乾隆帝時代とは…乾隆帝(けんりゅうてい)は、清の第6代皇帝。清王朝の最盛期を作り上げました。
彼は清朝の第6代の皇帝(在位1735~1795年)で1735年8月、父の雍正帝が没し、即位しました。その後は祖父の康煕帝、父の雍正帝に続く清の全盛期を作り上げました。華やかな文化財は清時代にほとんど作られたといって良いでしょう。その統治は60年に及び、1796年1月に嘉慶帝に譲位し、さらに4年間上皇として政治に関わった人です。そして清の乾隆帝の時、領土は史上空前の規模となり、現在の中国が領土権を主張する範囲は全てこの時の大清帝国の領土に入っています。
★墨の歴史…日本における墨の歴史はとても古く、日本書紀の推古天皇18年(西暦610年)の項には、高麗からやってきた僧・曇徴(どんちょう)について「五経に通じており、絵具・紙・墨などを作り」とありますから、少なくとも聖徳太子の時代には日本でも墨がつくられていたと思われます。ことに仏教の盛んになった奈良時代には、たくさんの写経に使うため、奈良・京都をはじめとする各地で墨づくりが行われるようになりました。もっとも、このころの墨は松煙墨が主流で、日本で油煙墨がつくられるようになったのは、鎌倉時代なのではないかと言われています。
★曇徴とは…曇徴(どんちょう)は高句麗の僧です。その昔610年ごろ、隋との戦争が目前に迫った高句麗によって、日本の軍事援助と引き換えに、隋によって派遣された僧です。またその際には法定(ほうじょう)という僧侶も伴っていました。曇徴・法定の両名は、小墾田宮におもむき、推古天皇に拝謁したのち、聖徳太子を訪れ会談したと伝えられているようです。曇徴は中国古典に通じていたうえに、絵の具や紙、墨をつくる名人であり、また日本で初めて水力で臼を動かしたと伝えられています。さらには曇徴は儒教の知識を教え、さまざまな技術や芸術を日本に伝えた人です。
★儒教とは…儒教は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系です。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ教えです。その学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ばれております。中国では、哲学・思想としては儒家思想といわれています。
儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸(六経)でできていますが。
春秋時代になり、『詩』・『書』・『春秋』の三経の上に、『礼』・『楽』の二経が加わり、五経になったといわれております。
尚、日本では儒教は学問 (儒学)として受容され、国家統治の 経世済民 思想や 帝王学 的な受容をされたため、 神道 、 仏教 に比べて、 宗教 として意識されることは少ないといわれております。
骨董品買取の福岡玄燈舎では書道具の墨を買取ります。お見積りだけでも構いませんのでお問い合わせください。
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